戯言と作品レビューや分析のブログとその時の思いつき。
シリーズもの 『かんなぎ』全話レビュー 涼宮ハルヒの分析
 劇場版『涼宮ハルヒの消失』が公開された。つい、朝から並んでしまった。

 キョン、が冒頭のシークエンスで小泉とすれ違ってこんな会話をする。「ハルヒのやつ最近調子が良いな。また。いつものアレだろう。」

 クリスマスが近い12月中旬。ハルヒはSOS団の部室でいつものようにミーティングをして一人はしゃいでいる。みくるは狼狽え、長門は読書をし、小泉は微笑んでいる。

 そして、キョンは冷笑して、ハルヒの行動を受け流している。このキョンの冷笑は、なんとなくだけれど、観ている側の視点とうまくシンクロするように思える。

 4年が経った。エンドレスエイト騒動もあった。『らき☆すた』や『けいおん!』から登場した新しく人気の出た娘達もたくさんいる。別に、京アニに限らなくても次から次に新顔が登場してくる。宇野常寛という評論家が「セカイ系から空気系へのパラダイムシフト、ひきこもりのオタク第3世代からリア充第4世代への消費者層のシフト(*)」と言ったりもしているけれど、そんな大げさな事かはさておいて、4年という月日は長いものだ。

 4年前に『涼宮ハルヒの憂鬱』に熱狂をした。そしていまや、『消失』冒頭のキョンのように冷笑をしていないだろうか。しかし、全ては『消失』する。そんな冷笑を吹き飛ばすように。

 『消失』の主題の一つは『涼宮ハルヒの憂鬱』という物語世界を受け入れるのか否か、だ。今観ている作品の事がほんとうに好きなのか?という問い。いわば、メタ『涼宮ハルヒの憂鬱』性。

 こういった構図は『涼宮ハルヒの憂鬱』の物語が好きだった人。かつて好きだった人には強烈に作用する事は間違いない。自分もそのような人に該当する。

 キョンのモノローグを通して語られる冷笑と絶望と希望。そんな感情に同調することで、『涼宮ハルヒの憂鬱』の魅力を一つ一つ再発見できる。

 ハルヒの熱気にあてられた事がある人は、劇場に足を運べば何かしらの発見がある。もし、消失を読んだことが無いなんて人がいたら今すぐ行って損はない。

 それでは、『消失』はハルヒに新たな感染者達を運んでくる事ができるのだろうか?こればかりは見守ることしかできない。けれども、『消失』が拡がりを持つのかそれとも袋小路に陥ってしまうのか、それは『涼宮ハルヒの憂鬱』というコンテンツが今の状況に対して力を持っているのかという試金石となる事だけは間違いがない。

 よくも悪くも『涼宮ハルヒの憂鬱』直球勝負である。「エンドレスエイト」のような変化球ではない。失敗したら、言い訳がきかない作品になっている。

(*)「ゼロ年代カルチャー総括座談会[アニメ]」『ゼロ年代のすべて』,09.12,p.131
『天空の城ラピュタ』がこの前の金曜ロードショーで放映された。

 自分もたまたまいた3〜4人とテレビを囲んで、twitterの実況をしながら楽しんだ。
 あの飛空艇の名前なんだっけ?とか金田さんの作画なの?とかジブリで一番好きなのって何?とかそんな会話が飛び交う。名言を言いたい欲望を止めることはできず、ITMediaによれば、例のシーンでは「バルス」と、2万回程度書き込まれたそうだ(buzutter調査)。

 のべ2万人という人がtwitterとテレビを通じて繋がっていた事になる。実際のtwitter実況をしていた人が半分だとしても1万人だ。この規模感と拡がりをもった感覚はとても面白かった。

 自分が、放送終了後につぶやいた事。

テレビは同期性が最高の強み。ラピュタ、twitterでタグつけてる人だけで一分間で4000近くバルスと書き込んだらしい。擬似的に数千人とテレビ見れるって楽しかったな。twitterならではの同期感。2ちゃんの実況とはちょっと違う。ここまで時間シンクロするのはTVくらいだろうけど。http://twitter.com/panypony/statuses/5890948041


 1万人近い人間と「バルス!」と叫ぶ、こんな不思議な一体感がとても面白かった。


Myrmecoleon in Paradoxical Library.バルスフイタより画像リンク

 テレビの面白さがtwitterのつぶやきで可視化されたみたいだ。テレビならではの面白は、多くの人と同じ映像を見ているという事から生まれる。もちろん、これはテレビのつまらなさを生むことになる。一体感に繋がっていくのか、見たくも無い映像を見せられていると思うか。ここら辺は『ラピュタ』ならば概ねクリアーとなる。

 twitterは2ちゃんねるのように一つの話題のスレッドに書き込むわけではない。ただ、個人がつぶやいているわけだ。ハッシュタグをつけずにつぶやいていた人がほとんどだろう。

 なので、twitterで「実況」が成り立つためには基準となる時間軸をユーザー間で共有する必要がある。

 ネットサービスのユーザー間の「時間」の共有について書かれた濱野智史氏『アーキテクチャの生態系』の第六章をみてみよう。

(以下、追記)
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5分でわかる〜は一回使ってみたかっただけです。サーセン。

津田大介『Twitte社会論』を読んだので紹介してみる。

twitterに関して知らない事がいっぱい乗っていた。
140字という制限がアメリカの携帯電話ネットワークの制限から生まれた話だとか(28頁)。

以下、目次に沿って紹介。

3章+対談という構成。

1章「twitterとは何か」
 twitterの紹介として6つの特徴が挙げられている(「リアルタイム性」「強力な伝播力」「オープン性」「ゆるい空気感」「属人性が強い」「自由度が高い」)。
 「リアルタイム性」に関しては、コミュニケーションがリアルタイムであるという面と、時系列順のデータとして価値を持つという二点が指摘されている。
 「オープン性」というのはAPIを公開して、twitterのデータを利用したWebサービスの構築を可能にしているという事だ。
 あとは、読んで字の如し。

2章「筆者のツィッター活用術」
 twitterの有名ユーザーたる津田さんによる体験談やハウツーといった実用講座。
 tsudaり方の注意や、どんなことに注意してツイートしているか、など。

3章「社会に広がるツィッター・インパクト」
 ジャーナリズム・政治・ビジネスという3つの領域で、抑えておくべき「事例」が列挙される。
 「90年代半ばに感じた「ネットが持つ無限の可能性」を、今再びある種のノスタルジーも含めて、ツイッターに仮託しているのかもしれない。(あとがき)」というきらいが無きにしもあらず。

 ■ジャーナリズム
 「伝達機能」「監視機能」「構築機能」はtwitterで可能か?という問い。筆者の職業がジャーナリスト、力点が置かれている。
 「伝達機能」
 ・08年5月四川地震の第一報はtwitterでのつぶやき→ブログへの転載 といったルートだった
 ・08年11月ムンバイテロは、写真共有サービスのフリッカーで写真がばらまかれた
 ・08年6月 秋葉原連続殺傷事件。筆者の友人のミクシィ日記での中継やユーストリームでの実況
 →情報の信頼性をどのように獲得するか

 「監視機能」
 ・09年4月、モルドバ共和国の選挙。選挙に不正があったのではないかという運動がtwitterで起こる。
 ・09年6月、言論統制化のイランでのネットを使った選挙運動。
 ・政策決定プロセスへの参加として、アメリカの「新クリーンエネルギー法案」や日本の「PSE問題」。

 「構築機能(アジェンダセッティング)」にはあまり事例無し

 ■政治
 ・オバマとマケインの大統領選挙戦。ネット献金5億ドル。
 ・政治家のtwitter利用。アメリカの例、日本の例。日本版まとめ「ぽりったー」
 ・09年9月の、民主党記者クラブ問題。
 ・タウンミーティングのネット化。アメリカ・オバマ「Change.gov」、イギリス「number10.gov.uk
 ・議員による国会議事堂中継。
 ・日本の場合選挙利用はグレーゾーン。
 ・英国ではtwitterのガイドラインがある。

 ■ビジネス
 ・デルがアウトレットPCの情報をtwitterに流す。130万以上のフォロワー。
 ・09年3月米調査会社ガートナーが企業の利用に4パターンあると報告。これに沿って紹介している。
  「直接型」:マーケティングや広報のチャネルとして。デルのごとし。
  「間接型」:社員が企業内の個人としてつぶやく。
  「内部型」:企業内コミュニケーションとして。09年8月 EC Studioの事例。
  「情報収集型」:競合他社やユーザーをモニタリングしたり検索したり
 ・http://business.twitter.com/twitter101/
 ・アメリカの格安航空会社、ジェットブルー・エアウェイズが、困っているユーザーを検索して、企業からサポートをはじめる。130万人以上のフォロワー。
 ・「Tasti D-lite」や「ペプシ」などの事例。
 ・とはいえ、twitterを利用すれば成功というわけではない。また、成功事例をただ真似してもしょうがない。ビジネスに応じて、切り開いていく必要がある。

勝間さんとの対談「つぶやく力」
 違った視点が入ってくる。以下は勝間さんの意見。
 ・140字にまとめるという作業は、万人ができるというものではない。
 ・インタラクティビティの作られ方がストア型に作られているのがフィットする。(チャットや電話などの同期システムではなく擬似同期システムであるという事でありますね)
 ・モバイルPCやiPhoneを使える層=30代後半男性が中心ユーザになって、そこから拡がりを見せるのか?使い方が難しいサービス。
 ・誰か、おそらくは非IT業界の人が面白い使い方を考えてくれるんじゃないかと期待。

まとめていて思ったのだけど、何年何月という情報が必ず入っている。
あと、ツィッターに限った話ではない。ネットによってエンパワーメントされた個人が「ジャーナリスト」や「政治」に何を起こすのかという論点だ。その動きをtwitterは加速させるだろうと筆者は予測しているわけだ。

副題は、「新たなリアルタイム・ウェブの潮流」となっているが、その通り、現在をざっくりと切り取る。そういった本になっている。
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10月後半に、吾妻ひでおの『けいおん!』発言が注目を浴びた(紹介したサイトその1 その2)。

吾妻ひでお曰く。
録画してあったTBSアニメの『けいおん!』観る。空虚だ。ギャグもナンセンスもユーモアもエログロもストーリーらしきものも何もない。ちょっとしたフェティシズムがあるだけ。このアニメ作ってる人も観てる人々も不気味。そんなに現実イヤなのか?


みぐぞうさんの「吾妻ひでおvs「けいおん!」炎上騒動における個人的な感想」では、けいおん肯定派と否定派の論争の燃料に吾妻ひでおが格好のネタとして使われてしまった、と状況をまとめている。
 確かに元ネタのマンガを見ると吾妻ひでおによる唯の模写があったりして、文章だけの印象とは全然違う。というか、あの吾妻ひでおがけいおん!を模写している!って方がニュースになればいいのに、なんだか「バトルロワイヤル」的状況(『ゼロ年代の想像力』)であります。吾妻さんが描かれた元画像はこちら(<リンクは上記サイトより)。

さて。
吾妻発言をきっかけとしてか(正確にはそれを紹介した記事が耳目を集めて以来)、10月後半にtwitter上でいくつか面白いけいおん語りがあったので、まとめてみたい。

状況1>『けいおん!』が好きな人が一定数いる
状況2>『けいおん!』を理解できない人が一定数いる

すべての人に受け入れられる作品が無いので、こういった状況1・2の対立は一般的に生じるのだが、

状況3>けいおん!は2009年を代表するアニメ作品である。
という状況3が加わる事によって、状況2に所属する人がモヤモヤして語りたくなるのだろう。

そりゃ「アニメ」も多様だし「萌えアニメ」も多様だし、すべての物語を面白いという人は評価基準が著しく低いか、限られたものしかみていないか、頭がおかしいかの何れかだろう。
#ちなみに、私は我慢してみていたらそのうち面白くなってきて(とりわけ梓入学以降の展開)最終回では感動した。

『けいおん!』語りから何か見えてくるかもしれないし、twitterでの議論の広がり方も面白かったので書いてみます。

(追記有、以下)
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武梨えり展に行った。



もう既に会期は終了していますが(2009.8.1-2009.9.6 於青山GoFa)、アフターレポートにも価値があるさという事で書いてみます。

■会場
 GoFaはマンガ関係の展覧会を数多くやっているこじんまりとしたスペースに原画を中心とした展示。過去にはよつばと展などをやっていた。
 ABCこと青山ブックセンター本店の横で、最寄り駅は表参道になる。
 会場入り口は少しわかりずらくて、ポスターの貼ってある鉄扉の先の階段の先が入り口になっている。エレベーターを使うと、どこかのオフィスに入って気まずいので注意が必要。

■原画について
 展示されているのは、まだ未完成の原稿。ベタ塗りやトーン作業背景処理がされていない段階のものが展示されている。
 というのも、この未完成の原稿をスキャンしてPCで最終的な形にしているらしく、完成原稿はデータでしか存在していない(*)。ちなみに、完成原稿のコピーもバインダーに閉じられているので比較しながら見ることも可能だった。
 髪の毛なども、筆のタッチが必要な部分のみ書いて、あとは白く抜いてある。修正などもPC上でされるのだろう、ホワイト修正なども乗っていない。なので白と黒のコントラストが鮮やかだった。

 TAKE MOON時代の作品も展示されていたが、こちらはいわゆるペン入れした原稿にベタを塗ったり、トーンが貼ってあるおなじみの完成原稿だった。シエルのカレー好きという定番のネタ設定を、いじりつつも、ちょっとした青春の1ページに変換する手際は鮮やか(私が行ったのは3期で、この期間中はこの話が展示されていた)。カレー=人にはいえない趣味みたいな解釈で、好きな人を前にして戸惑ったり悩んだりする、この狙い済ました暗喩の使い方は流石。

中学生時代小学生〜中学生時代のマンガについて
 ここでしか見られない作品として、小学生だか中学生だかに作成された肉筆回覧誌とそのコピーが置いてあった。展覧会のお品書きには、「・小学生の頃より描き続けている、ライフワークとなっている漫画の展示。」とある。

 ネコくんが主人公で、妖精と出会い、半ば巻き込まれるように異世界を旅をする。ドジばかりの妖精が魔法を唱えるというちょっとドタバタがあったり、浦島太郎のように妖精の館でしばらく過ごして、やがて別れがやってくるというようなお話。
 小学生なんで絵も上手くないし、技術的に秀でているわけでもない。一コマだけカラーにしてみてあとは力尽きたり、線を引くときに物差しの間にインクがたまって生じる流れ線があったりする。だけども、必死に描いている感じは伝わってくる。

 マンガが好きな女の子というスタートから「マンガ家」に至るまでの間や、共通点がないんだろうかと考えてしまう。

 ラストで画かれる妖精との決別のシーンではコマにはみ出るようにしてくさいくさいと連呼していたり、魔法少女ものというジャンルを意識したシーンがあったり、この「距離感」は武梨まんがの距離感だなあと思うが、うがちすぎな気がしないでもない。
 魔法少女だったり、日常世界と異世界の混じり合いだったり、ドタバタ感だったり、最後は「決別」だったりといったモチーフが同じだよなあ。って、これは完全にうがった見方。

 ただ、ずっと「読者」に向けて描き続けてきた事はいえるだろう。続きものになっていたり、裏表紙には閲覧隅を示すのだろう赤い判子がずらっと押してあったり、「読者」に向けて描いていたことがわかる。

【10.20 誤字修正。このパート修正・加筆しました。カトゆーさんに、中学生時代のマンガ!と紹介されたのですが、あくまでも小学生時代からのライフワークという表記であって不正確な表記だったかもと訂正しました。】

■コミュニケーションノートについて
 会場にはテーブルがあって、その上にコミュニケーションノートがおいてある(**)。

 さて。当たり前だがこの空間には『かんなぎ』や武梨えりを好きな人しかいない。大阪から来たと書いている人が4〜5人はいたし、仙台から来た人も2〜3人いた気がする。一人、沖縄から来たと豪語していたが。

 JKです。中学生です。とか書いている人もいた。で、漫画家志望です!とか書いてあって、横にがんばってるけど下手な絵が描いてあったりする。クラスで、『かんなぎ』を広めようとしているんだけど、周りの人たちはあまり耳を傾けません…というJKだかJCの意見。

 で、会場の横には同時に武梨えり(小学生)が描いた下手なマンガが置いてあったりする。漫画家志望の彼女たちはすごく勇気付けられたんじゃないだろうか。

 作品。というのは人に影響を与えることができるという当たり前のことに気付かされた。少なくとも、日本中から東京に集まってくる程度には。子供達にペンを取らせようと決意する程度には。こうやって、「マンガ」は脈々とつながっていく、のかもしれない。

 今、武梨えりさんは病気療養中という事で、そういった類のコメントが多く寄せられる事になる。しかし、「好きに書いてくれればいい」だとか、「いつまでも待っている」だとか、「このままで終わるのは嫌だ。」とか。誰に示し合わせたわけでもなく同じ文面を必死に考えて送ってしまうおれ「達」がたくさんいて苦笑いをしてしまう。

 これが、「作品」の力なのだ。と思った。

 一つの作品を語るとき、物語の内容を語るような語り口は多い。もしくは、物語の環境を語ったりだとか、物語の法則だったりキャラの法則だったりといったる語り口をとってしまう。だけれども、そういう語り口は、こういった「作品」の力を語っているとはいえない。
 すごく素朴な話だけれども、商業的に本を出版してアニメ化をするという事は、日本全国津々浦々に万人単位で読者を手にする事だ。そういった薄い拡がりの中には、それこそ自分の人生を「作品」の力によって変えられてしまう人もいるだろう。確率論的にそういう強い影響を受けてしまうひとは出てくる。だからこそ、「規模」の力は大事だ。同人と商業の差異は物語内容にあるわけではなくて、対象となる範囲や「規模」の違いが大きいように思う(環境制約として「資本」の有無はあるとは思うけれど)。
 よく、マンガ家が、ファンレターが励みになるとか書いてるけど、こりゃやる気が出るわ。「作品」の「意味」そのものじゃないか。そんなことを感じた。

 ネットやリアルに限らずそれこそいたるべきところでこういったコミュニケーションは行われているのだろう。
 偶然、武梨えりの展覧会で発見して舞い上がってしまった、という話。
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【10.5 文書構成変えました。ラブプラスの解説部分を追記に移動。】

ラブプラスを買ってみた。

最初はできの悪いギャルゲーのような印象しかもてなかった。シナリオもキャラクターもよっぽど他に優れたゲームが存在している、と。が、次に書いたような経験をしてからこの「ゲーム」の評価が大きく変わった。与えられた物語を受け取るような姿勢でプレイしていてはいけなかったのだ。

昼休みにラブプラスを起動した。昼休みの残り時間は10分程度で、時計を睨みながら、「彼女」を学校の庭に呼び出し他愛の無い会話をした。
さて。問題なのはDSを閉じたあとだ。あたかも、昼休みの間にちょっと抜け出して今目の前にあるそこの庭で彼女と会っていたような錯覚に襲われたのだ。

こういった経験や、ネット上に飛び交う「彼氏」としての発言をみるにつけ、ラブプラスの本質はRPGなのではないかと思うようになった。
『ラブプラス』には非電源ゲーム的な、役割を演じるという意味でのロール・プレイング・ゲームという側面が強いのではないか。


先に引用したAmazonのレビューでの「彼女ができました」発言にあるように、『ラブプラス』のプレーヤーは「彼氏」という役割を演じている。テーブルトークRPGに当てはめれば、ルールブックが『ラブプラス』、リプレイがネットでの書き込みということになるだろうか。

実時間とシンクロさせないプレイも可能にはなっている。たとえば時間を飛ばせるスキップモードだったり、DS本体の日付情報を進めたり。だけれども、それでは現実を侵食してくるような『ラブプラス』の醍醐味は味わえない。

誕生日のイベントにしろ、クリスマスのイベントにしろ、来るべき日を1日1日待つ。そうやって、自分の現実を固有結界で包み、「彼氏」を演じる必要がある。

『ラブプラス』は、彼女ができるゲームではなく、彼氏になれるゲームなのである。


Amazonや2ちゃんねるの書き込みを見ていて、ラブプラスを絶賛している人ほど「彼氏」としての自覚を持っている印象を受けた。逆にいえば、そうやって自分が「彼氏」を演じる事ができなければ、これほど退屈なゲームも無い。

このゲーム内での体験は素材でしかなく、そこから豊かなリプレイを創造する事こそが「ゲーム」の面白さなのではないか。(ひぐらし/うみねことネット上の推理といった例もある)こういった物語への信頼感のなさとユーザーへの信頼感の高さは「ゲーム」らしい。ニコニコ動画のゲーム実況を見ていればわかるけれど、ゲームの面白さを発見するのはユーザー自身なのだ。

そう考えれば、『ラブプラス』の新規性が明らかになるように思う。

『ラブプラス』は高度なごっこ遊びだ。そういった意味で『ラブプラス』には高度な資質と想像力が求められている。DSに香水をかけるなどの行為は、変態行為に思えるかもしれないが、その方向性がラブプラスの正当な楽しみ方であるように思う。
「彼氏」になりきったものの勝ちなのだ。

(追記有)
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 サマーウォーズの監督・作画監督コンビである細田守×青山浩行の対談を読んでいて、目から鱗が何枚も落ちた。


細田 (……)以前、僕が東映で先輩演出家の人たちに教わったことといえば、とくに幾原邦彦さんからですが、演出の付け方には二種類あると。ひとつは、「表現派」、もうひとつは「芝居派」だと。芝居派というのは、キャラクターの演技や感情表現を、アニメーターの動きや表情に頼って演出することです。それに対して表現派は、アニメーターの芝居に頼らず、なるべく絵コンテの表現で作品のおもしろさを保証するという演出のことです。主に、東映では、芝居派の演出をすると失敗すると言われていて、なるべく作画の力を当てにしないで演出をしろと教わりました。
「『サマーウォーズ』のキャラクターの演技はいかにしてできたか? 細田守×青山浩行 対談」『PLUS MADHOUSE 3 細田 守』p.141


■環境制約が二つのスタイルを産んだ


 この「表現派」と「芝居派」という区別は見事に日本の商業アニメーションの表現スタイルを分割している。
 一言でいえば、作画主導=「芝居派」、演出家主導=「表現派」となる。

 この引用のあとにある、東映動画内では芝居派の演出家は評価されなかったという発言が面白い。東映動画ではテレビシリーズでは厳しい枚数制限がある、また上手いアニメーターは映画を担当しテレビシリーズには回ってこない。テレビの演出家の元には相対的に下手なアニメーターしか残っていないのだから、芝居=アニメーターの力に頼る演出家は二流という事になる。「幾原(邦彦)さん自信、『美少女戦士セーラームーン』を、毎週3000枚どころか、2000枚でもおもしろく魅せていた。」と同対談で細田守は語っている。日本の商業アニメに横たわる環境制約が、作品内容だけではなく、アニメーターとしての評価をも決めている。

 自身の東映アニメーション時代を振り返り「基本的には作画監督の山下(高明)さんの持つ強烈なレイアウト力だけが武器」との発言も残している。絵コンテだけで面白いものを作る必要がある。そういった環境制約の中で、同ポという手抜き技を演出の力で魅力的なシーンに仕立て上げるという細田演出が生まれてきたのだと考えられる。影無し作画も同様に省力化の技法だ。



■演出のスタイルと作品内容の関係について


 次に、細田守はアニメーションにおける本質的な問いを投げかける。


僕は、表現派では豊かな作品にはなりづらいと思っています。社会をシニカルに眺めたり、暗部を描くためには、表現派はスマートな手法なわけ。でも、カメラが芝居しすぎて、演出の意図がうざいと思われる。それって映画の楽しみじゃなくて、巧い動きをテクニック的に楽しんでいるのと変わらない。テクニック偏重と同じ意味になっちゃうんですね。明るい題材には、必ずしも適した手法ではないんです、表現派というのは。(p.149)」

「これはアニメに限らず言えることだと思いますが、シリアスなものを作る方が簡単なんですよね。人間はこんなにダメだ、とか、世界は終わる、とかいうほうが表現しやすいわけ(p.148)」
同上

 コミカルで楽しい演技をするためには人間に対する肯定的な目線をアニメーターが持っている必要があるとしている。アニメーターがキャラクターに演技をさせるわけなので、アニメーター自身に世界の肯定感が無ければ楽しい演技は成立しない。また、アニメーターの演技を抑圧する「表現派」では、感情の表現は難しいという事だろう。

 もちろん、細田守は「表現派」と「芝居派」の向き不向きを話している。視聴者的感覚からしても、「表現派」の作品がつまらないとも思わない。題材によって、向き不向きがあるという話である。「表現派」の流行と、王道たるちょっとコミカルで楽しいアニメがぽっかり抜けている事に気がついて『サマーウォーズ』を仕掛けてきたわけだ。


■例>サマーウォーズと化物語


 『サマーウォーズ』は、生粋の「表現派」だった細田守が『時をかける少女』をきっかけに、宮崎駿の遺産たるテレコムアニメーション出身のアニメーターと出会い、そこで感じた「演技派」に対するカルチャーショックを活かした布陣で臨んだ作品という見方ができる。

 逆に、テレコム出身の青山浩行は細田さんの絵コンテで作業できることは幸せだというような発言も残している。「芝居派」と「表現派」を融合させるべく作品作りが志された事がわかる。

 で、この「芝居派」と「表現派」の対比は、すごく汎用的だ。現代の深夜アニメ界の人気を二分する、シャフトと京アニの基本的スタンスとも重なるように見える。

 『化物語』を放映中のシャフトは、まさに「表現派」の代表選手である。デジタルアニメの利点をフルに生かして省力化かつ、魅力的な画面を構成することに徹している。読ませる気のない旧かなつかいのタイポグラフィの連打、極端な画面の色合い、実写との融合、3DCGの多用などなど。

 先に引用した「芝居派」への評価はまるで『絶望先生』や『化物語』を評しているようにも聞こえてくる。

 作品の内容以上に演出家のテクニックを見ているという指摘。『絶望先生』と『化物語』の間には強烈なデジャブ感がある(そもそも、近年のシャフト作品は独特の演出方法を常に進化させ続けており、連続性がある)。
 例えば、旧かなつかいの羅列。これは、昭和趣味といおうか独特のレトロな感じが表現されているし、字体とそのレイアウトは美しい。だが、大正風味が作品に漂う『絶望先生』ならまだしも、現代を舞台にした『化物語』の世界でそれが展開されるのには違和感がある。ここでは、作品を見せる為の演出ではなく、演出を魅せるための作品という転倒があるように見られる。「それって映画の楽しみじゃなくて、巧い動きをテクニック的に楽しんでいるのと変わらない。」という状態になっていないだろうか。

 アニメ『化物語』は面白いんだけれども、同時に西尾維新の原作が持っていた独特の味わいをばっさりと切り落としているようにも見える。

 例えば、アニメ版の『化物語』の風景はいびつだ。PCの世界で作られた人工風景である事を自己主張している。細田守のデジタル世界描写があるが、あの世界観で日常の風景を描いているような印象を受ける。


2009-09-13-1-12009-09-13-2-1
上二枚は、化物語 #5より

 西尾維新の会話をアニメ上で見ていて、こういった戯れの言葉を紡ぎ出す才能は半端ない事を再確認した。おはなしの転がし方だったり、こういった足腰の強さといおうか翻訳しても消えない「面白さ」は確かにある。だけれども、読後感は全く違う。もっとも、違うからこそ、アニメで『化物語』を楽しんだ後に、小説を読む楽しみがあるといえるのかもしれない。



追記:06:00
ちなみに、八九寺編のオープニングディレクターの板垣伸はテレコム・アニメーション出身。自身がこのオープニングについて語っている。動かす事の気持ちよさが映像に満ちていて、化物語の他のオープニングと比べてもベクトルが違う。

丁度良い比較かと思うので、youtubeのOPを下に引用。

追記:09.14
強調を追加。引用部分強調も含む。
見出しも追加。
youtube動画を追加。
⇒ 続きを読む
 テレビシリーズはDVD(≒Blu-ray、以下略)などのディスクの広告に過ぎないとだとか、アニメのDVDが売れなくなっているだとかよく聞く。

 テレビアニメのDVDといえば、限定版と称して映像本体におまけを付けて売る事が一般的だ。『かんなぎ』だったら、サントラCDだったり小冊子だったりドラマCDだったりといったおまけがついてくる。『CLANNAD』だったら、声優さんの直筆書込入りのアフレコ台本が入っていたりする。あとは、定番のオーディオコメンタリーだったり。

 一枚のディスクに収録されているのは大抵2話で、5〜8千円程度する。割高で、それに見合う価値をつけさせる為におまけをつけている。

 そういった小手先に頼る手法が目立つ中、『化物語』のDVDは真っ向勝負をしている。『化物語』は、怪異にとりつかれた女の子と主人公の交わりを描く話で、各キャラ毎に2〜3話で完結する。で、そのキャラクター回が一枚のDVDにまとめられている。(但し、つばさキャットは二巻構成と後に判明)

化物語 ひたぎクラブ
化物語 第二巻 /まよいマイマイ
化物語 第三巻 /するがモンキー
化物語 第四巻 /なでこスネイク

 オープニング映像・楽曲は、キャラ毎に新しく作られ、この音源が、それぞれのDVDのおまけとしてついている。ひたぎクラブを除いて、このキャラ別のOPは三話を通して一回のみ放映され、三本で一つの作品という印象を強める(残りの二話はOPが放映されなかったり通常版が放映される。02:55追記)。DVD一枚でストーリーが完結しているので、好きなキャラの巻だけ買うことも可能だろう(キャラによっては二話構成の場合もある)。

 のみならず、原作者西尾維新脚本のオーディオコメンタリーがつく。出演者はその巻の主役キャラと委員長となっている(9.14では二巻目までキャスト発表)。戦場ヶ原や八九寺がアニメを見ながら阿良々木さんに童貞とかいうわけですね。

 オフィシャルページを見ると、アイコンには「ひたぎクラブ」や「まよいマイマイ」とだけあって、巻数表示は無い。五巻というよりは五人なのだ(二段落 追記 09.14)。

 深夜アニメはDVDを売って初めて利益が出るというOVAと同じような商売だったにも関わらず、映像本編は旧来のテレビシリーズのお約束を守った作りになっていた。1クールでOP・EDが一回づつ変わるだとか、最終回間際になると盛り上がる展開がやってくるだとか。

 これらのお約束はテレビというメディアで戦うためには重要な事かもしれないが、DVDというメディアにおいては何の意味もない。利益を生み出すのはDVDであるにも関わらず、テレビというメディアに合わせて商品は作られてきた。DVDを買っている側からすれば、最終回前だけではなくて、DVD一枚毎に盛り上がった方が良いに決まっている。

 しかし、深夜アニメのDVD化では、単価を上げるために二話を一枚の中に入れたり、前編・後編という性質を持つおはなしを巻をまたいで収録するなど、ユーザーの視点に立っているとは思いがたい商品づくりがされているのが現状だ。

 そういった中、テレビアニメのお約束や制約を離れてきっちり出口のDVDに焦点を合わせて商品作りがされた事。これは特筆すべきことだ。

 もちろんキャラクターソングやキャラクター毎に見せ場を作る手法自体は珍しいものではない。が、『化物語』はコロンブスの卵的に色々な要素を組み合わせて、「キャラクター」を中心とした一つのコンセプトの元にまとめ上げられている。

 一巻で完結するキャラクターの物語、その巻だけのオープニング。主題歌のCDがついてくる。その巻の主演キャラが原作者の脚本でオーディオコメンタリをする。パッケージイラスト。などなど全ての要素がキャラクターを中心にまとめられている。(9.14追記)

【註】その後、つばさキャットは上・下二巻になることがわかりました。1巻=1キャラという美しさは失われたものの、それでもコンパクトにキャラクターの魅力をパッケージングしていると思います。(10.6追記)

化物語 ひたぎクラブ【完全生産限定版】 [Blu-ray]化物語 第二巻 / まよいマイマイ (完全生産限定版) [Blu-ray]化物語 第三巻 / するがモンキー (完全生産限定版) [Blu-ray]
化物語 第四巻 / なでこスネイク【完全生産限定版】 [Blu-ray]化物語 第五巻/つばさキャット 上【完全生産限定版】 [Blu-ray](amazon)



 元より、シャフトのオープニングはテレビのお約束からは無縁だった。毎回ちょっとづつ映像を差し替えたり、主題歌のバージョンを何通りも用意するのは、お家芸ともいえる。それらはネット上でのネタの供給という文脈で捉えられるだろう。ここでもテレビアニメというメディアを利用して、ネットというメディアで戦ってきたわけである。余談だが、こういった他メディア間の翻訳を意識した作品作りは昨今のテレビアニメの特徴だと思われる。『ハルヒ』しかり、『けいおん!』しかり。

 アニメが売れない中、またどのアニメも同様の話題作りに盛んで相対的に目立たなくなっている中、最終的に利益を生む商品の完成度を上げるという方向に舵を切ったという事は、ちょっとすがすがしい。『ハルヒ』がエンドレスエイトを4枚のDVDに分けて売ろうとしている事と比べると好対照だろう。(エンドレスエイトは実験的手法としては特筆すべき面白さを持っているが、それなら1枚毎の収録話数を増やすなどすべきかと思う。あれではDVDで観る人には辛い)。

 尾石さんが走りすぎている感もある演出には賛否両論あるだろう。あれも、オープニングに一点集中(一番露出が多い所に力を投入)、本編はほとんど動かず演出の力で見せる(コストカット)、キャラの絵がほとんど決して崩れない(ユーザーが五月蠅いところには力を投入)(*)といった厳しい時代のアニメ作法なのかもしれない。

追記:9.13
(*)このエントリを書いた後、第10話が紙芝居状態であることが判明。他の話数に関してもキャラの絵が崩れた印象はあまり受けなかったけれど、色々ミスを指摘されたりしている事も発見。決して崩れないはちょっと言い過ぎだったかもと、訂正。

■化物語以外の例
はてブコメントでとらドラ!はどうか?と指摘がありました。
tnk962 そういう意味では、とらドラ!を取り上げて欲しい。TVシリーズとしても盛り上がったが、DVDとしてリリースされたときの収録話数については計算され尽くしている。第1巻に4話収録して、その後3話ずつ。エピソード毎に

原作の構成も違うのでキャラクター=1巻というコンセプトでは無いですが、ユーザー目線で丁寧な商品作りがされていた例が、最近の話題作にもあったという事でありますね。
(9.14追記)

(9.14 文意を変えずちょっと文章校正しました)

*
(註1)
10.3追記。
その後、するがモンキーは上・下巻での発売となった事がわかりました。
1巻=1キャラではないものの、1キャラ毎にコンパクトに魅力的なモノを作っているという意見は変わりませんです。
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