戯言と作品レビューや分析のブログとその時の思いつき。
シリーズもの 『かんなぎ』全話レビュー 涼宮ハルヒの分析
武梨えり展に行った。



もう既に会期は終了していますが(2009.8.1-2009.9.6 於青山GoFa)、アフターレポートにも価値があるさという事で書いてみます。

■会場
 GoFaはマンガ関係の展覧会を数多くやっているこじんまりとしたスペースに原画を中心とした展示。過去にはよつばと展などをやっていた。
 ABCこと青山ブックセンター本店の横で、最寄り駅は表参道になる。
 会場入り口は少しわかりずらくて、ポスターの貼ってある鉄扉の先の階段の先が入り口になっている。エレベーターを使うと、どこかのオフィスに入って気まずいので注意が必要。

■原画について
 展示されているのは、まだ未完成の原稿。ベタ塗りやトーン作業背景処理がされていない段階のものが展示されている。
 というのも、この未完成の原稿をスキャンしてPCで最終的な形にしているらしく、完成原稿はデータでしか存在していない(*)。ちなみに、完成原稿のコピーもバインダーに閉じられているので比較しながら見ることも可能だった。
 髪の毛なども、筆のタッチが必要な部分のみ書いて、あとは白く抜いてある。修正などもPC上でされるのだろう、ホワイト修正なども乗っていない。なので白と黒のコントラストが鮮やかだった。

 TAKE MOON時代の作品も展示されていたが、こちらはいわゆるペン入れした原稿にベタを塗ったり、トーンが貼ってあるおなじみの完成原稿だった。シエルのカレー好きという定番のネタ設定を、いじりつつも、ちょっとした青春の1ページに変換する手際は鮮やか(私が行ったのは3期で、この期間中はこの話が展示されていた)。カレー=人にはいえない趣味みたいな解釈で、好きな人を前にして戸惑ったり悩んだりする、この狙い済ました暗喩の使い方は流石。

中学生時代小学生〜中学生時代のマンガについて
 ここでしか見られない作品として、小学生だか中学生だかに作成された肉筆回覧誌とそのコピーが置いてあった。展覧会のお品書きには、「・小学生の頃より描き続けている、ライフワークとなっている漫画の展示。」とある。

 ネコくんが主人公で、妖精と出会い、半ば巻き込まれるように異世界を旅をする。ドジばかりの妖精が魔法を唱えるというちょっとドタバタがあったり、浦島太郎のように妖精の館でしばらく過ごして、やがて別れがやってくるというようなお話。
 小学生なんで絵も上手くないし、技術的に秀でているわけでもない。一コマだけカラーにしてみてあとは力尽きたり、線を引くときに物差しの間にインクがたまって生じる流れ線があったりする。だけども、必死に描いている感じは伝わってくる。

 マンガが好きな女の子というスタートから「マンガ家」に至るまでの間や、共通点がないんだろうかと考えてしまう。

 ラストで画かれる妖精との決別のシーンではコマにはみ出るようにしてくさいくさいと連呼していたり、魔法少女ものというジャンルを意識したシーンがあったり、この「距離感」は武梨まんがの距離感だなあと思うが、うがちすぎな気がしないでもない。
 魔法少女だったり、日常世界と異世界の混じり合いだったり、ドタバタ感だったり、最後は「決別」だったりといったモチーフが同じだよなあ。って、これは完全にうがった見方。

 ただ、ずっと「読者」に向けて描き続けてきた事はいえるだろう。続きものになっていたり、裏表紙には閲覧隅を示すのだろう赤い判子がずらっと押してあったり、「読者」に向けて描いていたことがわかる。

【10.20 誤字修正。このパート修正・加筆しました。カトゆーさんに、中学生時代のマンガ!と紹介されたのですが、あくまでも小学生時代からのライフワークという表記であって不正確な表記だったかもと訂正しました。】

■コミュニケーションノートについて
 会場にはテーブルがあって、その上にコミュニケーションノートがおいてある(**)。

 さて。当たり前だがこの空間には『かんなぎ』や武梨えりを好きな人しかいない。大阪から来たと書いている人が4〜5人はいたし、仙台から来た人も2〜3人いた気がする。一人、沖縄から来たと豪語していたが。

 JKです。中学生です。とか書いている人もいた。で、漫画家志望です!とか書いてあって、横にがんばってるけど下手な絵が描いてあったりする。クラスで、『かんなぎ』を広めようとしているんだけど、周りの人たちはあまり耳を傾けません…というJKだかJCの意見。

 で、会場の横には同時に武梨えり(小学生)が描いた下手なマンガが置いてあったりする。漫画家志望の彼女たちはすごく勇気付けられたんじゃないだろうか。

 作品。というのは人に影響を与えることができるという当たり前のことに気付かされた。少なくとも、日本中から東京に集まってくる程度には。子供達にペンを取らせようと決意する程度には。こうやって、「マンガ」は脈々とつながっていく、のかもしれない。

 今、武梨えりさんは病気療養中という事で、そういった類のコメントが多く寄せられる事になる。しかし、「好きに書いてくれればいい」だとか、「いつまでも待っている」だとか、「このままで終わるのは嫌だ。」とか。誰に示し合わせたわけでもなく同じ文面を必死に考えて送ってしまうおれ「達」がたくさんいて苦笑いをしてしまう。

 これが、「作品」の力なのだ。と思った。

 一つの作品を語るとき、物語の内容を語るような語り口は多い。もしくは、物語の環境を語ったりだとか、物語の法則だったりキャラの法則だったりといったる語り口をとってしまう。だけれども、そういう語り口は、こういった「作品」の力を語っているとはいえない。
 すごく素朴な話だけれども、商業的に本を出版してアニメ化をするという事は、日本全国津々浦々に万人単位で読者を手にする事だ。そういった薄い拡がりの中には、それこそ自分の人生を「作品」の力によって変えられてしまう人もいるだろう。確率論的にそういう強い影響を受けてしまうひとは出てくる。だからこそ、「規模」の力は大事だ。同人と商業の差異は物語内容にあるわけではなくて、対象となる範囲や「規模」の違いが大きいように思う(環境制約として「資本」の有無はあるとは思うけれど)。
 よく、マンガ家が、ファンレターが励みになるとか書いてるけど、こりゃやる気が出るわ。「作品」の「意味」そのものじゃないか。そんなことを感じた。

 ネットやリアルに限らずそれこそいたるべきところでこういったコミュニケーションは行われているのだろう。
 偶然、武梨えりの展覧会で発見して舞い上がってしまった、という話。
⇒ 続きを読む
【10.5 文書構成変えました。ラブプラスの解説部分を追記に移動。】

ラブプラスを買ってみた。

最初はできの悪いギャルゲーのような印象しかもてなかった。シナリオもキャラクターもよっぽど他に優れたゲームが存在している、と。が、次に書いたような経験をしてからこの「ゲーム」の評価が大きく変わった。与えられた物語を受け取るような姿勢でプレイしていてはいけなかったのだ。

昼休みにラブプラスを起動した。昼休みの残り時間は10分程度で、時計を睨みながら、「彼女」を学校の庭に呼び出し他愛の無い会話をした。
さて。問題なのはDSを閉じたあとだ。あたかも、昼休みの間にちょっと抜け出して今目の前にあるそこの庭で彼女と会っていたような錯覚に襲われたのだ。

こういった経験や、ネット上に飛び交う「彼氏」としての発言をみるにつけ、ラブプラスの本質はRPGなのではないかと思うようになった。
『ラブプラス』には非電源ゲーム的な、役割を演じるという意味でのロール・プレイング・ゲームという側面が強いのではないか。


先に引用したAmazonのレビューでの「彼女ができました」発言にあるように、『ラブプラス』のプレーヤーは「彼氏」という役割を演じている。テーブルトークRPGに当てはめれば、ルールブックが『ラブプラス』、リプレイがネットでの書き込みということになるだろうか。

実時間とシンクロさせないプレイも可能にはなっている。たとえば時間を飛ばせるスキップモードだったり、DS本体の日付情報を進めたり。だけれども、それでは現実を侵食してくるような『ラブプラス』の醍醐味は味わえない。

誕生日のイベントにしろ、クリスマスのイベントにしろ、来るべき日を1日1日待つ。そうやって、自分の現実を固有結界で包み、「彼氏」を演じる必要がある。

『ラブプラス』は、彼女ができるゲームではなく、彼氏になれるゲームなのである。


Amazonや2ちゃんねるの書き込みを見ていて、ラブプラスを絶賛している人ほど「彼氏」としての自覚を持っている印象を受けた。逆にいえば、そうやって自分が「彼氏」を演じる事ができなければ、これほど退屈なゲームも無い。

このゲーム内での体験は素材でしかなく、そこから豊かなリプレイを創造する事こそが「ゲーム」の面白さなのではないか。(ひぐらし/うみねことネット上の推理といった例もある)こういった物語への信頼感のなさとユーザーへの信頼感の高さは「ゲーム」らしい。ニコニコ動画のゲーム実況を見ていればわかるけれど、ゲームの面白さを発見するのはユーザー自身なのだ。

そう考えれば、『ラブプラス』の新規性が明らかになるように思う。

『ラブプラス』は高度なごっこ遊びだ。そういった意味で『ラブプラス』には高度な資質と想像力が求められている。DSに香水をかけるなどの行為は、変態行為に思えるかもしれないが、その方向性がラブプラスの正当な楽しみ方であるように思う。
「彼氏」になりきったものの勝ちなのだ。

(追記有)
⇒ 続きを読む

 サマーウォーズの監督・作画監督コンビである細田守×青山浩行の対談を読んでいて、目から鱗が何枚も落ちた。


細田 (……)以前、僕が東映で先輩演出家の人たちに教わったことといえば、とくに幾原邦彦さんからですが、演出の付け方には二種類あると。ひとつは、「表現派」、もうひとつは「芝居派」だと。芝居派というのは、キャラクターの演技や感情表現を、アニメーターの動きや表情に頼って演出することです。それに対して表現派は、アニメーターの芝居に頼らず、なるべく絵コンテの表現で作品のおもしろさを保証するという演出のことです。主に、東映では、芝居派の演出をすると失敗すると言われていて、なるべく作画の力を当てにしないで演出をしろと教わりました。
「『サマーウォーズ』のキャラクターの演技はいかにしてできたか? 細田守×青山浩行 対談」『PLUS MADHOUSE 3 細田 守』p.141


■環境制約が二つのスタイルを産んだ


 この「表現派」と「芝居派」という区別は見事に日本の商業アニメーションの表現スタイルを分割している。
 一言でいえば、作画主導=「芝居派」、演出家主導=「表現派」となる。

 この引用のあとにある、東映動画内では芝居派の演出家は評価されなかったという発言が面白い。東映動画ではテレビシリーズでは厳しい枚数制限がある、また上手いアニメーターは映画を担当しテレビシリーズには回ってこない。テレビの演出家の元には相対的に下手なアニメーターしか残っていないのだから、芝居=アニメーターの力に頼る演出家は二流という事になる。「幾原(邦彦)さん自信、『美少女戦士セーラームーン』を、毎週3000枚どころか、2000枚でもおもしろく魅せていた。」と同対談で細田守は語っている。日本の商業アニメに横たわる環境制約が、作品内容だけではなく、アニメーターとしての評価をも決めている。

 自身の東映アニメーション時代を振り返り「基本的には作画監督の山下(高明)さんの持つ強烈なレイアウト力だけが武器」との発言も残している。絵コンテだけで面白いものを作る必要がある。そういった環境制約の中で、同ポという手抜き技を演出の力で魅力的なシーンに仕立て上げるという細田演出が生まれてきたのだと考えられる。影無し作画も同様に省力化の技法だ。



■演出のスタイルと作品内容の関係について


 次に、細田守はアニメーションにおける本質的な問いを投げかける。


僕は、表現派では豊かな作品にはなりづらいと思っています。社会をシニカルに眺めたり、暗部を描くためには、表現派はスマートな手法なわけ。でも、カメラが芝居しすぎて、演出の意図がうざいと思われる。それって映画の楽しみじゃなくて、巧い動きをテクニック的に楽しんでいるのと変わらない。テクニック偏重と同じ意味になっちゃうんですね。明るい題材には、必ずしも適した手法ではないんです、表現派というのは。(p.149)」

「これはアニメに限らず言えることだと思いますが、シリアスなものを作る方が簡単なんですよね。人間はこんなにダメだ、とか、世界は終わる、とかいうほうが表現しやすいわけ(p.148)」
同上

 コミカルで楽しい演技をするためには人間に対する肯定的な目線をアニメーターが持っている必要があるとしている。アニメーターがキャラクターに演技をさせるわけなので、アニメーター自身に世界の肯定感が無ければ楽しい演技は成立しない。また、アニメーターの演技を抑圧する「表現派」では、感情の表現は難しいという事だろう。

 もちろん、細田守は「表現派」と「芝居派」の向き不向きを話している。視聴者的感覚からしても、「表現派」の作品がつまらないとも思わない。題材によって、向き不向きがあるという話である。「表現派」の流行と、王道たるちょっとコミカルで楽しいアニメがぽっかり抜けている事に気がついて『サマーウォーズ』を仕掛けてきたわけだ。


■例>サマーウォーズと化物語


 『サマーウォーズ』は、生粋の「表現派」だった細田守が『時をかける少女』をきっかけに、宮崎駿の遺産たるテレコムアニメーション出身のアニメーターと出会い、そこで感じた「演技派」に対するカルチャーショックを活かした布陣で臨んだ作品という見方ができる。

 逆に、テレコム出身の青山浩行は細田さんの絵コンテで作業できることは幸せだというような発言も残している。「芝居派」と「表現派」を融合させるべく作品作りが志された事がわかる。

 で、この「芝居派」と「表現派」の対比は、すごく汎用的だ。現代の深夜アニメ界の人気を二分する、シャフトと京アニの基本的スタンスとも重なるように見える。

 『化物語』を放映中のシャフトは、まさに「表現派」の代表選手である。デジタルアニメの利点をフルに生かして省力化かつ、魅力的な画面を構成することに徹している。読ませる気のない旧かなつかいのタイポグラフィの連打、極端な画面の色合い、実写との融合、3DCGの多用などなど。

 先に引用した「芝居派」への評価はまるで『絶望先生』や『化物語』を評しているようにも聞こえてくる。

 作品の内容以上に演出家のテクニックを見ているという指摘。『絶望先生』と『化物語』の間には強烈なデジャブ感がある(そもそも、近年のシャフト作品は独特の演出方法を常に進化させ続けており、連続性がある)。
 例えば、旧かなつかいの羅列。これは、昭和趣味といおうか独特のレトロな感じが表現されているし、字体とそのレイアウトは美しい。だが、大正風味が作品に漂う『絶望先生』ならまだしも、現代を舞台にした『化物語』の世界でそれが展開されるのには違和感がある。ここでは、作品を見せる為の演出ではなく、演出を魅せるための作品という転倒があるように見られる。「それって映画の楽しみじゃなくて、巧い動きをテクニック的に楽しんでいるのと変わらない。」という状態になっていないだろうか。

 アニメ『化物語』は面白いんだけれども、同時に西尾維新の原作が持っていた独特の味わいをばっさりと切り落としているようにも見える。

 例えば、アニメ版の『化物語』の風景はいびつだ。PCの世界で作られた人工風景である事を自己主張している。細田守のデジタル世界描写があるが、あの世界観で日常の風景を描いているような印象を受ける。


2009-09-13-1-12009-09-13-2-1
上二枚は、化物語 #5より

 西尾維新の会話をアニメ上で見ていて、こういった戯れの言葉を紡ぎ出す才能は半端ない事を再確認した。おはなしの転がし方だったり、こういった足腰の強さといおうか翻訳しても消えない「面白さ」は確かにある。だけれども、読後感は全く違う。もっとも、違うからこそ、アニメで『化物語』を楽しんだ後に、小説を読む楽しみがあるといえるのかもしれない。



追記:06:00
ちなみに、八九寺編のオープニングディレクターの板垣伸はテレコム・アニメーション出身。自身がこのオープニングについて語っている。動かす事の気持ちよさが映像に満ちていて、化物語の他のオープニングと比べてもベクトルが違う。

丁度良い比較かと思うので、youtubeのOPを下に引用。

追記:09.14
強調を追加。引用部分強調も含む。
見出しも追加。
youtube動画を追加。
⇒ 続きを読む
 テレビシリーズはDVD(≒Blu-ray、以下略)などのディスクの広告に過ぎないとだとか、アニメのDVDが売れなくなっているだとかよく聞く。

 テレビアニメのDVDといえば、限定版と称して映像本体におまけを付けて売る事が一般的だ。『かんなぎ』だったら、サントラCDだったり小冊子だったりドラマCDだったりといったおまけがついてくる。『CLANNAD』だったら、声優さんの直筆書込入りのアフレコ台本が入っていたりする。あとは、定番のオーディオコメンタリーだったり。

 一枚のディスクに収録されているのは大抵2話で、5〜8千円程度する。割高で、それに見合う価値をつけさせる為におまけをつけている。

 そういった小手先に頼る手法が目立つ中、『化物語』のDVDは真っ向勝負をしている。『化物語』は、怪異にとりつかれた女の子と主人公の交わりを描く話で、各キャラ毎に2〜3話で完結する。で、そのキャラクター回が一枚のDVDにまとめられている。(但し、つばさキャットは二巻構成と後に判明)

化物語 ひたぎクラブ
化物語 第二巻 /まよいマイマイ
化物語 第三巻 /するがモンキー
化物語 第四巻 /なでこスネイク

 オープニング映像・楽曲は、キャラ毎に新しく作られ、この音源が、それぞれのDVDのおまけとしてついている。ひたぎクラブを除いて、このキャラ別のOPは三話を通して一回のみ放映され、三本で一つの作品という印象を強める(残りの二話はOPが放映されなかったり通常版が放映される。02:55追記)。DVD一枚でストーリーが完結しているので、好きなキャラの巻だけ買うことも可能だろう(キャラによっては二話構成の場合もある)。

 のみならず、原作者西尾維新脚本のオーディオコメンタリーがつく。出演者はその巻の主役キャラと委員長となっている(9.14では二巻目までキャスト発表)。戦場ヶ原や八九寺がアニメを見ながら阿良々木さんに童貞とかいうわけですね。

 オフィシャルページを見ると、アイコンには「ひたぎクラブ」や「まよいマイマイ」とだけあって、巻数表示は無い。五巻というよりは五人なのだ(二段落 追記 09.14)。

 深夜アニメはDVDを売って初めて利益が出るというOVAと同じような商売だったにも関わらず、映像本編は旧来のテレビシリーズのお約束を守った作りになっていた。1クールでOP・EDが一回づつ変わるだとか、最終回間際になると盛り上がる展開がやってくるだとか。

 これらのお約束はテレビというメディアで戦うためには重要な事かもしれないが、DVDというメディアにおいては何の意味もない。利益を生み出すのはDVDであるにも関わらず、テレビというメディアに合わせて商品は作られてきた。DVDを買っている側からすれば、最終回前だけではなくて、DVD一枚毎に盛り上がった方が良いに決まっている。

 しかし、深夜アニメのDVD化では、単価を上げるために二話を一枚の中に入れたり、前編・後編という性質を持つおはなしを巻をまたいで収録するなど、ユーザーの視点に立っているとは思いがたい商品づくりがされているのが現状だ。

 そういった中、テレビアニメのお約束や制約を離れてきっちり出口のDVDに焦点を合わせて商品作りがされた事。これは特筆すべきことだ。

 もちろんキャラクターソングやキャラクター毎に見せ場を作る手法自体は珍しいものではない。が、『化物語』はコロンブスの卵的に色々な要素を組み合わせて、「キャラクター」を中心とした一つのコンセプトの元にまとめ上げられている。

 一巻で完結するキャラクターの物語、その巻だけのオープニング。主題歌のCDがついてくる。その巻の主演キャラが原作者の脚本でオーディオコメンタリをする。パッケージイラスト。などなど全ての要素がキャラクターを中心にまとめられている。(9.14追記)

【註】その後、つばさキャットは上・下二巻になることがわかりました。1巻=1キャラという美しさは失われたものの、それでもコンパクトにキャラクターの魅力をパッケージングしていると思います。(10.6追記)

化物語 ひたぎクラブ【完全生産限定版】 [Blu-ray]化物語 第二巻 / まよいマイマイ (完全生産限定版) [Blu-ray]化物語 第三巻 / するがモンキー (完全生産限定版) [Blu-ray]
化物語 第四巻 / なでこスネイク【完全生産限定版】 [Blu-ray]化物語 第五巻/つばさキャット 上【完全生産限定版】 [Blu-ray](amazon)



 元より、シャフトのオープニングはテレビのお約束からは無縁だった。毎回ちょっとづつ映像を差し替えたり、主題歌のバージョンを何通りも用意するのは、お家芸ともいえる。それらはネット上でのネタの供給という文脈で捉えられるだろう。ここでもテレビアニメというメディアを利用して、ネットというメディアで戦ってきたわけである。余談だが、こういった他メディア間の翻訳を意識した作品作りは昨今のテレビアニメの特徴だと思われる。『ハルヒ』しかり、『けいおん!』しかり。

 アニメが売れない中、またどのアニメも同様の話題作りに盛んで相対的に目立たなくなっている中、最終的に利益を生む商品の完成度を上げるという方向に舵を切ったという事は、ちょっとすがすがしい。『ハルヒ』がエンドレスエイトを4枚のDVDに分けて売ろうとしている事と比べると好対照だろう。(エンドレスエイトは実験的手法としては特筆すべき面白さを持っているが、それなら1枚毎の収録話数を増やすなどすべきかと思う。あれではDVDで観る人には辛い)。

 尾石さんが走りすぎている感もある演出には賛否両論あるだろう。あれも、オープニングに一点集中(一番露出が多い所に力を投入)、本編はほとんど動かず演出の力で見せる(コストカット)、キャラの絵がほとんど決して崩れない(ユーザーが五月蠅いところには力を投入)(*)といった厳しい時代のアニメ作法なのかもしれない。

追記:9.13
(*)このエントリを書いた後、第10話が紙芝居状態であることが判明。他の話数に関してもキャラの絵が崩れた印象はあまり受けなかったけれど、色々ミスを指摘されたりしている事も発見。決して崩れないはちょっと言い過ぎだったかもと、訂正。

■化物語以外の例
はてブコメントでとらドラ!はどうか?と指摘がありました。
tnk962 そういう意味では、とらドラ!を取り上げて欲しい。TVシリーズとしても盛り上がったが、DVDとしてリリースされたときの収録話数については計算され尽くしている。第1巻に4話収録して、その後3話ずつ。エピソード毎に

原作の構成も違うのでキャラクター=1巻というコンセプトでは無いですが、ユーザー目線で丁寧な商品作りがされていた例が、最近の話題作にもあったという事でありますね。
(9.14追記)

(9.14 文意を変えずちょっと文章校正しました)

*
(註1)
10.3追記。
その後、するがモンキーは上・下巻での発売となった事がわかりました。
1巻=1キャラではないものの、1キャラ毎にコンパクトに魅力的なモノを作っているという意見は変わりませんです。
⇒ 続きを読む

PS版『かまいたちの夜』を読んでみた時の事。
こんなのをみつけた。

Ws013831

>当初予測通り、時系列順に「涼宮ハルヒの溜息」にはじまる文化祭編が放送されるのだろうか?
>それはあり得ない。
>赤っ恥承知の上で、次にくるのは「涼宮ハルヒの消失 I」以外にはあり得ないと断言してみる。

当初予測通り、「涼宮ハルヒの溜息」にはじまる文化祭編が放送されました。

ということで。
放送開始時にも、消失編しかないだろうみたいな書き方をしてしまいましたし
当該エントリなどを読んで、期待させてしまった方などいたらすみませんでした。
いや、夢を見たかったんです。

先のエントリは、あり得たかもしれない展開に対する架空評論として読んでください。

長門編としてのエンドレスエイトというifストーリーは、エンドレスエイトの8回繰り返しに積極的な意味を見いだすならという所から思いついたものです。逆にいえば、文化祭編が始まるなら、エンドレスエイトは八回繰り返される必要は無いようにも思います。
ネタで騒いでほしかったというのと、ハルヒといコンテンツの延命措置というのはわかるんですが、それと物語はどのように結びつくのか。

話は飛びますが、エンドレスエイトが終わらないで疲れている時に、ニコニコ動画の東方ランキングが無性に見たくなって、久しぶりに東方の世界を戯れたら癒されました。

ユーザー巻き込み型のコンテンツというのは、「神」が決めた土俵の枠内で踊らなきゃいけないわけで、この土俵の設定はユーザーの体験に直結してくるのは言うまでもなく。

ZUN氏の中心を置かないで世界と戯れさせてくれるという設計や、うみねこの作者対ユーザーという構図をとってその推理が物語の中心に置くという設計だったり。

はい。ということで、寝ます。
しかし、ハルヒが今時テレビにかじりつかねばと思わせる魔力を持っているのは事実。一回性の確保というか、横並びのコンテンツ視聴環境から一線を引いた、独特のハルヒ体験を生んでいること自体は事実。

*
文章、8.14.朝に微調整。

ご無沙汰しております。
前にエントリを書いたのが1月以上前の6月20日、ハルヒ、エンドレスエイトについてでありました。
なんということでしょう。
いまだに、涼宮ハルヒの憂鬱はエンドレスエイトを放送中です。

以下には当然のごとくエンドレスエイトや涼宮ハルヒの消失へのネタバレを含みます。

評判は概ね不評といっていい。エンドレスエイトが収録予定のDVDのカスタマーレビューなどがわかりやすい。まあ、今回のような正面から冷水をぶっかけるようなスタイルは決して受けがいいものではないだろう。

旧作の総合演出であるものの今作にはまったく関わっていない山本寛のゲリラ的な発言がある種の賞賛をもって受け入れられたという事からもネット上のに流れる空気はわかる。

京アニに電凸をしたり買い集めたグッズを破壊するファンが現れる始末だ。平均からは外れたイってしまった行動だし、パフォーマンスに過ぎないと切り捨てることもできる。だが、グッズをめちゃくちゃにするという行動を見ていて胸を切り裂かれるような思いがするのも事実である。そのグッズを買い集めた過去の気持ちは真実だろうから、ハルヒを好きな一人として心が痛む。

もちろん、このループ構造に積極的に意味を見いだしていこうという指摘も面白い。
『ひぐらしのなく頃に』などのループ構造とは根本的に違うと指摘したエンドレスエイトにおけるループ描写の特異性 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)、長門の時間性と視聴者の時間性を重ね合わせる演出がハルヒというキャラに象徴されるアニメという終わらない祭りに対する批評性を持つという指摘、また「記号的なキャラクターを実在物のように見立てる」というトレンドを指摘したモノとしての記号 - 仮想算術の世界などが挙げられる(後述する予定だが、これは長門と共に過ごした3年間などで指摘した所と重なるように思える)。また、映像表現というレベルで記述した涼宮ハルヒの憂鬱 見えてきたエンドレスエイトの同期演出 - subculicも面白い。

確かに、長門の後ろ姿の切なさは筆舌に尽くしがたいものがあった。しかも、結果を後追いするわけではなくリアルタイムで見たときのキョンに対するがっかり感といったらない。そういった意味では、実験的かつ野心的な試みが成功しているともいえる。とはいえ、ずっとハルヒを好きだったコアなファンを裏切ったという事は否定できない。

以上でエンドレスエイトを取り巻く状況をゆるゆるとまとめてみた。

さて、京アニはどうケリをつけるのか。考察してみた。

以下、言うまでもなく、消失へのネタバレを含みます。

エンドレスエイト収録予定、二期の二巻目の発表日が決まった。amazonにはこのような記述がある。

『さらに第2巻限定版特典として、
描き下ろし特製DVD-BOX(全4巻収容)』

この全4巻収録はのDVD-BOXはおそらく、エンドレスエイト全話収納可能なものだろう。という事で、来週での全8話集結が、にわかに現実味を帯びてきた。

となると気になるのは、次に始まるのは何か。

商品の展開が始まるのが8月である(止マレ!が8.26 笹の葉が8.28)し、
打てるかどうかはさておいて、ここら辺で逆転打を打つつもりなのだろう。

当初予測通り、時系列順に「涼宮ハルヒの溜息」にはじまる文化祭編が放送されるのだろうか?
それはあり得ない。
赤っ恥承知の上で、次にくるのは「涼宮ハルヒの消失 I」以外にはあり得ないと断言してみる。



2009.8.14>私の予測は外れ、溜息が放送されました。以下は、一種のifストーリーとしてお読みくださいませ。すんません。
http://nipponia.blog44.fc2.com/blog-entry-192.html

(本文に続く)
⇒ 続きを読む
一点目。
エンドレスエイト。普通の夏休みの話。

原作『涼宮ハルヒの憂鬱』はメタライトノベル(=メタ萌えアニメ)であるという言い方をされる。このエンドレスエイトはまさにこのメタ萌えアニメ感に満ちていた。

えーと、冒頭から挙げると、プールで水着、仲間とショッピング、浴衣で夏祭り、川辺で花火、虫取り勝負、着ぐるみを来てバイトする、天体観測、バッティングセンター、花火大会、釣り、肝試し、映画鑑賞、ボーリング対決、カラオケ、夏休みの宿題、をやらずに妹とゲームで遊ぶ。これらは学園ものの定番のモチーフなのだ。

それは全てハルヒの計画に従っている。こういった自覚的な入れ子構造がとられていて、とくに今回は これらが20分強に詰め込まれているという無理矢理感も含めて「メタ」感が強く出ていたように思う。

これを順当に展開させたのが、野球回であり宇宙戦艦バトル回であるわけであります。

二点目。

「エンドレスエイト」。そのタイトルを訳せば、「終わらない八月」とでもなろうか。恐らく、来週はキョンが高校野球を見ているシーンから始まるだろう。 この話は八月がループする話で、今週とほとんど同じ風景が描かれるだろう。で、途中で気がついて解決編みたいなお話だろう。

ここで重要なのは、キョンと同じ体験を視聴者ができる仕掛けをとっているという事だ。キョン=視聴者という視線が一貫している。だとすれば、視聴者の前に提出される映像は愚直にループされていなければならない。

この仕掛けは、ややこしいお話である『ハルヒ』を妙なリアリティをもって我々に迫ってくる事の一因となっている。

そして、キョンとハルヒの恋物語ということは、視聴者と萌えアニメの関係性の象徴的関係の表象という事になる。大昔のギリシア人が愛と正義を象徴化させたキャラクター達を抱き合わせていたように。


09.8.3追記。
このエントリはエンドレスエイト一回目直後に書いたもの。
その後、現時点で7回のループが確認されている。
こうなれば、斜線を引いた読みは困難になってくる。
視聴者の記憶をキョンは共有していないのだから。
視聴者と物語を共有できるのは長門有希しかありえなくなってくる。
上記は、どちらかといえば一期ハルヒの読み方となります。
と、上記訂正します。

***

ハルヒについてもけいおんについても書きたい事は少しあるですが、ちょっと時間が無く。日曜日に何かupできるかもわかりませんが、とりあえずはエンドレスエイトの覚え書きでありました。
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