戯言と作品レビューや分析のブログとその時の思いつき。

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前のエントリからの続き

 連載中断と前後して起こったのが、ナギ様の非処女騒動です。

 連載中断直前はこのような筋運びでした。

・ナギに告白するぜとテンションがあがる仁。
・ナギとそっくりの行動をとる謎の男大東の描写。
・ナギの思い人だと大東を突きつけるざんげ。
・大東=ケガレと同化するナギ
・仁は「失恋」してしまう。

 ここで、連載が中断してしまいます(一番良い所で3年半!だったわけですね)。

 まずは、この非処女騒動についてよくある誤解があるので確認しておきます。

1)本人が倒れたのはこの騒動が起こる前で騒動の最中は集中治療中という状況なので、この案件にショックを受けて連載休止といった因果関係は無いという事。読者サイドとしては騒動→連載中断という流れなので紛らわしいですが。

2)非処女騒動の起源をかんなぎだと思われている人もいるのだが、それも誤り。少し調べればわかりますが、原作物を破壊してネットにさらすという行為を含めての非処女騒動というのは前例があります。

 まず問題提起したいのは、この非処女騒動というが作家にとって想定内の出来事だったのか想定外のアクシデントのどちらなのか。というのも、こういった展開である程度の反発がある事はある程度、想定済みだったように見えます。

 5巻の第二七幕では、劇中でこんなやりとりがあります。
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武梨えり展に行った。



もう既に会期は終了していますが(2009.8.1-2009.9.6 於青山GoFa)、アフターレポートにも価値があるさという事で書いてみます。

■会場
 GoFaはマンガ関係の展覧会を数多くやっているこじんまりとしたスペースに原画を中心とした展示。過去にはよつばと展などをやっていた。
 ABCこと青山ブックセンター本店の横で、最寄り駅は表参道になる。
 会場入り口は少しわかりずらくて、ポスターの貼ってある鉄扉の先の階段の先が入り口になっている。エレベーターを使うと、どこかのオフィスに入って気まずいので注意が必要。

■原画について
 展示されているのは、まだ未完成の原稿。ベタ塗りやトーン作業背景処理がされていない段階のものが展示されている。
 というのも、この未完成の原稿をスキャンしてPCで最終的な形にしているらしく、完成原稿はデータでしか存在していない(*)。ちなみに、完成原稿のコピーもバインダーに閉じられているので比較しながら見ることも可能だった。
 髪の毛なども、筆のタッチが必要な部分のみ書いて、あとは白く抜いてある。修正などもPC上でされるのだろう、ホワイト修正なども乗っていない。なので白と黒のコントラストが鮮やかだった。

 TAKE MOON時代の作品も展示されていたが、こちらはいわゆるペン入れした原稿にベタを塗ったり、トーンが貼ってあるおなじみの完成原稿だった。シエルのカレー好きという定番のネタ設定を、いじりつつも、ちょっとした青春の1ページに変換する手際は鮮やか(私が行ったのは3期で、この期間中はこの話が展示されていた)。カレー=人にはいえない趣味みたいな解釈で、好きな人を前にして戸惑ったり悩んだりする、この狙い済ました暗喩の使い方は流石。

中学生時代小学生~中学生時代のマンガについて
 ここでしか見られない作品として、小学生だか中学生だかに作成された肉筆回覧誌とそのコピーが置いてあった。展覧会のお品書きには、「・小学生の頃より描き続けている、ライフワークとなっている漫画の展示。」とある。

 ネコくんが主人公で、妖精と出会い、半ば巻き込まれるように異世界を旅をする。ドジばかりの妖精が魔法を唱えるというちょっとドタバタがあったり、浦島太郎のように妖精の館でしばらく過ごして、やがて別れがやってくるというようなお話。
 小学生なんで絵も上手くないし、技術的に秀でているわけでもない。一コマだけカラーにしてみてあとは力尽きたり、線を引くときに物差しの間にインクがたまって生じる流れ線があったりする。だけども、必死に描いている感じは伝わってくる。

 マンガが好きな女の子というスタートから「マンガ家」に至るまでの間や、共通点がないんだろうかと考えてしまう。

 ラストで画かれる妖精との決別のシーンではコマにはみ出るようにしてくさいくさいと連呼していたり、魔法少女ものというジャンルを意識したシーンがあったり、この「距離感」は武梨まんがの距離感だなあと思うが、うがちすぎな気がしないでもない。
 魔法少女だったり、日常世界と異世界の混じり合いだったり、ドタバタ感だったり、最後は「決別」だったりといったモチーフが同じだよなあ。って、これは完全にうがった見方。

 ただ、ずっと「読者」に向けて描き続けてきた事はいえるだろう。続きものになっていたり、裏表紙には閲覧隅を示すのだろう赤い判子がずらっと押してあったり、「読者」に向けて描いていたことがわかる。

【10.20 誤字修正。このパート修正・加筆しました。カトゆーさんに、中学生時代のマンガ!と紹介されたのですが、あくまでも小学生時代からのライフワークという表記であって不正確な表記だったかもと訂正しました。】

■コミュニケーションノートについて
 会場にはテーブルがあって、その上にコミュニケーションノートがおいてある(**)。

 さて。当たり前だがこの空間には『かんなぎ』や武梨えりを好きな人しかいない。大阪から来たと書いている人が4~5人はいたし、仙台から来た人も2~3人いた気がする。一人、沖縄から来たと豪語していたが。

 JKです。中学生です。とか書いている人もいた。で、漫画家志望です!とか書いてあって、横にがんばってるけど下手な絵が描いてあったりする。クラスで、『かんなぎ』を広めようとしているんだけど、周りの人たちはあまり耳を傾けません…というJKだかJCの意見。

 で、会場の横には同時に武梨えり(小学生)が描いた下手なマンガが置いてあったりする。漫画家志望の彼女たちはすごく勇気付けられたんじゃないだろうか。

 作品。というのは人に影響を与えることができるという当たり前のことに気付かされた。少なくとも、日本中から東京に集まってくる程度には。子供達にペンを取らせようと決意する程度には。こうやって、「マンガ」は脈々とつながっていく、のかもしれない。

 今、武梨えりさんは病気療養中という事で、そういった類のコメントが多く寄せられる事になる。しかし、「好きに書いてくれればいい」だとか、「いつまでも待っている」だとか、「このままで終わるのは嫌だ。」とか。誰に示し合わせたわけでもなく同じ文面を必死に考えて送ってしまうおれ「達」がたくさんいて苦笑いをしてしまう。

 これが、「作品」の力なのだ。と思った。

 一つの作品を語るとき、物語の内容を語るような語り口は多い。もしくは、物語の環境を語ったりだとか、物語の法則だったりキャラの法則だったりといったる語り口をとってしまう。だけれども、そういう語り口は、こういった「作品」の力を語っているとはいえない。
 すごく素朴な話だけれども、商業的に本を出版してアニメ化をするという事は、日本全国津々浦々に万人単位で読者を手にする事だ。そういった薄い拡がりの中には、それこそ自分の人生を「作品」の力によって変えられてしまう人もいるだろう。確率論的にそういう強い影響を受けてしまうひとは出てくる。だからこそ、「規模」の力は大事だ。同人と商業の差異は物語内容にあるわけではなくて、対象となる範囲や「規模」の違いが大きいように思う(環境制約として「資本」の有無はあるとは思うけれど)。
 よく、マンガ家が、ファンレターが励みになるとか書いてるけど、こりゃやる気が出るわ。「作品」の「意味」そのものじゃないか。そんなことを感じた。

 ネットやリアルに限らずそれこそいたるべきところでこういったコミュニケーションは行われているのだろう。
 偶然、武梨えりの展覧会で発見して舞い上がってしまった、という話。
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ネットのどこかで『かんなぎ』は『とらドラ!』と比べてラブコメとしての品質が悪いと宇野常寛がサイゾーに書いてあったと聞いたんだけど、実際にサイゾーの記事を読むとこれは完全に誤り情報。勝手な読み方しすぎです。二次情報・三次情報が独り歩きするのが嫌なので、以下に該当箇所を載せておきます。

更科修一郎と宇野常寛が2008年の作品を小説/ドラマ/映画/アニメなどのジャンル毎に褒めたり貶したりするという企画の中での一幕。

更科(中略)『とらドラ!』(テレビ東京)もストーリー的にはまったく共感できない学園ラブコメだけど、実写映画・テレビドラマ調のメリハリの利いた演出だけで十分見られる。もともと、元京都アニメーションの山本寛が得意とする方向性なんだけど、これと比べると、ヤマカンの初監督『かんなぎ』(東京MXなど)はちょっと苦しい。

宇野 ヤマカンの実写映画・ドラマ好きとオタマッチョ全開の脚本の相性がもう、悪いこと(笑)。

更科 それもあるけど、ウェルメイド志向の京アニでは抑えられていた自意識が解放されて、逆に娯楽作品としてのバランス感覚を崩したような気もする。全体としては高いクオリティなんだけど、なぜか観ていてつらい。
「サブカルチャー最終審判 #9」p.110『サイゾー2009/2号』


 これ、あくまでも『とらドラ!』とは映像演出面で比較されているわけだし、喋っているのは更科さんだし。

 ネット上での噂話は怖い!という話でした。
 両氏にゆるゆると応答してみたものは、以下に書いたのでどうぞ。

#サイゾーっていえば、ジャージ女の子じゃなかったっけ?あとは、山形浩生の巻末コラム。そんな時代の読者でした。
⇒ 続きを読む

第十三幕考察の後半です。

色彩の変化
 第十三幕、仁はナギに対する煮え切らない気持ちをふっきる。
 仁の気持ちを反映させるかのように、映像の色彩は移り変わる。空模様は、雨から曇りになりやがて晴間が覗くようになる。それに合わせて、画面を覆っていた灰色の光が取り除かれる。アニメーションで偶然映ってしまったものはおそらく存在していない。

Kannagi13-21
冒頭。ガラスが雨の湿度の高さで曇っている。

Kannagi13-13-1

授業中。曇り空の下、力なく走っている。

Kannagi13-14-1

放課後。つぐみと仁。青空と曇空が半分。

 つぐみに肩を押され、仁は悩みをふっきって自転車でナギの元へと向かう。
 自転車にまたがった仁を描く一連のカットでは、画面が仁と鮮やかな青空だけでレイアウトされている。前回あった白亜父との回想シーンがインサートされるが(そんな得体の知らないものと暮らしていて云々)が、このカットは鮮やかな青色とは対比的にモノクロになっている。また、口を結んだ仁の表情が、自信に満ちた表情になっているという対比も指摘できるだろう。

 そして、突き抜ける様な青空の中、仁は「だって楽しかったんだ」という言葉を宣言する。

 灰色からの解放と、仁の想いの解放。
 アニメーションで偶然映ってしまったものはおそらく存在していない。ゆえに、画面には仁と青空しか写っていない。下に引用した最後のカットは、ほとんど青空がメインといってもいいレイアウトになっている。そして、仁は鮮やかな緑色の中でナギと再会する。

 仁が決意をした段階で物語を支えるベクトルは定まってしまったように思う。ここまでお膳立てされた状況下で、ナギと会えば抱きしめる以外の選択肢はありえないのである。以下に一連のカットを並べてみたけれど、それだけで一目瞭然ではないか。

Kannagi13-15-1Kannagi13-16-1
Kannagi13-17-1Kannagi13-18-1
Kannagi13-19-1

⇒ 続きを読む

前回の更新からかなり間が空いてしまいました。
放送に合わせて更新してきたので、イレギュラーになってしまい申し訳ないです。
が、『かんなぎ』最終話の考察をお送りします。
まずは前半。

*

つぐみの視線
 第十三幕から一つカットを選べと言われたら、このカットしかない。

Kannagi13-1

 仁とナギが手を繋いだシーンの後、掲示板の書き込みが画面に写っているカットだ。
 「ナギ様、仁君と一緒にいたね。」
 「手つないでたよ♪」
 といった、他愛の無い会話がなされている。

 表面的にはナギと仁の様子を実況している掲示板だが、それ自体にはあまり意味が無い。この書き込みを見ているのは、つぐみなのだ。第十三幕を通して、掲示板の書き込みを見ているのはつぐみしかいない。
 1秒にも満たない、瞬きをすれば終わってしまうカットだ。ストーリーはすぐに仁とナギにフォーカスされる。しかし、つぐみの心情や姿は我々の脳裏に焼き付く。

 クレショフ効果だとかモンタージュだとかいう言葉がある。無表情な男性のカットに続けて料理のカットを繋げた映像を見ると、空腹な男性という印象が得られるというアレである。映像と映像が化学反応を起こして、全く新しい内容が生まれる、映像が映像である理由。

 映像/アニメーションで、感情を描くにはどうすれば良いのだろうか。暗く沈んでいるつぐみの表情を捉えるのも一つだろうが、ここではつぐみを描かないという手法がとられている。正確にいえば、カットとカットの間につぐみの感情を生じさせたのである。[ナギと仁が手を繋ぐ]カットと[つぐみの視線]を表すカットの間には、確かにつぐみの感情が存在している。

 映像の力はカットのカットの間に生じる。その描かれないものは視聴者の中でいかようの形も取りうる。しかし、描写の積み重ねで縛り付けて形を取らせるのが演出家の仕事だろう。

 仁とナギが手を繋いでいるという事実をつぐみは、掲示板の画面を通して知る。それは傍観者としての立場ではない。つぐみはこの結末を覚悟した上で仁の背中を押したのだろう…といったつぐみのやるせなさを一瞬にして我々は受け取ることができる。

 この描かれないものを描くために、一つ一つの描写が積み重ねられている。また、直接描かれない故に表現される感覚ともいえる。いわば上澄のようなカットなのである。つぐみ派としては、このカットを選ばないわけにはいかない。

つぐみの決意
 一つの飛躍を生む為に、つぐみの仁を想う描写が積み重ねられる。シリーズ全体を通しても、メイド喫茶に取り残されるつぐみだとか、「仁を守らなきゃ」と決意をするつぐみだったり、仁への想いが画面に出てくる。前回のエントリでは第十二幕の仁の動きにフォーカスを当てたが、つぐみが仁を想う気持ちも描かれている。

⇒ 続きを読む

 前回(第十一幕)で、ナギと仁は喧嘩をする。
 「ナギは何者なのか?」という問い。それは、ナギにとっても「わからないということさえわからなかった」という「地雷」だった。そして、売り言葉に買い言葉。前回の最後、ナギはどこかに消え、オオヌサだけが屋上に取り残された。

 そして、第十二幕「ほんとうにエフェメラル」。
 第十二幕「エフェメラル」では、独り残された仁を描く。シリーズ構成にしろ、演出にしろ、作画にしろ、演技にしろ、全てがからみあった凄い回だった。

 「エフェメラル」では、仁しか描かれない。ナギは完全に姿を消して、画面に現れる事もない。唯一出てくるカットは、仁の夢の中で死体となったナギである。声すらも、仁の幻聴という形でしか登場しない。徹底的なナギの不在、そして、その現状を受け入れ、立ち向かい、絶望する少年の姿が描かれる。
 それ以外は描かれない。素晴らしい決断。

■仁が独りになった40時間
 久しぶりに、映像に「時間」が流れている回である。仁が経験する「ナギの不在」という40時間を徹底的に描こうという演出家の、固い意思を感じる。
 「エフェメラル」では、ナギと喧嘩別れした後から翌々日の朝までの約40時間、仁の姿をたんたんと追いかけている。そこでは、ドラマは起こらない。
 ドラマが生起しないが故に引き延ばし策であるという意見もあるが、それどころか、ドラマが起こるまでのエネルギーが内に内に溜め込まれていくシリーズ構成上欠かせない回である。緩急のついたシーンとシーンの繋がり方、どこを切っても絵になる練り込まれたレイアウトなど、映像としての緊張感も高い。何よりも仁と共に仁の焦りや後悔が煮詰まる様子が、仁の行動や表情、そして40時間という時間が語りかけてくる。

 順番に見て行こう。


⇒ 続きを読む

 カラオケ回だけで、一話。
 そういう思い切りの良さが、山本寛っぽい。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』にはまったきっかけ、山本寛という人を意識せざるを得なかったきっかけが、放送1話「朝比奈ミクルの冒険」だった。ここでは、最初から最後までハルヒ達が文化祭用に撮った学生映画が流れる。その学生映画を再現する為に、逆光・手ぶれ・矛盾のある演出まで、考えられる技巧が凝らしてある。そして、大事なのは「朝比奈ミクルの冒険」がDVDの特典映像ではなくて、放送の1話目で流れたという事だ。私を含めて、初めてテレビアニメでハルヒを知った人の驚きやいかん。これは劇中劇なのだと途中で気がついた時の感激やいかん。なのである。

 こういう視聴者への挑戦とも信頼とも取れるシリーズの構成をしてくるあたりに同じ匂いを感じる。

 アニメオリジナル回だと誤解している人も多いのだが、原作にあるカラオケ回を膨らませたもの(3巻に収録)。

 まんがでカラオケを歌うという回を描く武梨えりも武梨えりだが、それを受けて、神前暁に作・編曲して歌わせる山本寛も山本寛だ。
 ざんげちゃんはアニメオリジナル楽曲であるが、それ以外の楽曲は、原作ではサビだけ歌っている曲にそれらしく作曲をして、前後の部分も補完したものである。それぞれの曲の作詞は武梨えりとはなっていないが、曲の方向性/コンセプターはいうまでもなく武梨えりのものである。

 余談だが、作詞/作曲 武梨えりである所の『ハロー大豆』がプチブーム中。こんな動画なぞ。

 さて、今回はアニメ版かんなぎの収穫ともいえるエピソードだった。
 カラオケの隣に座って欲しくて微妙な仕草をする「つぐみ」、ざんげと目線でやりとりをしてちょっと怒る。それだけで可愛いのだ。

 カットをテンポよく積み重ねる事で、説明過剰にならずさらっと状況を表現している。
 以下に見てみよう。

⇒ 続きを読む

この第十一幕から最終回の第十三幕までは、ナギと仁を中心に物語が進む。

ナギと仁が喧嘩をする。

問題の種となるのは、『ナギ』とは何者なのかということだ。
ナギは悩み、仁はそんなナギを受け入れようとする。

第十一幕では、「オオヌサ」を象徴的に使っている。

 オオヌサはボロボロになってしまっている。パワーアップしたいというナギだが、余計な出費をしたくない仁は軽く拒否する。しかし、仁はそのボロボロになったオオヌサに、今までナギと過ごして来た時間を思い出す。仁は、ナギが風呂に入っている間に、オオヌサを修理する(おそらく半紙を張り替えたり、汚れた箇所を拭き取ったり……)。

Kannagi11-1

 ナギは風呂上がりに修理されたオオヌサを見つける。そして、ナギは皿を洗っている仁の所に行く。「三千円くらいまでなら」と譲歩する仁を遮って、「これでいい」と言うナギ。そして、「明日からこれでばりばり祓う!仁も頼むぞ!」と言うのだが、その表情はなんともいえず、嬉しそうである。

Kannagi11-2

 しかし、その翌日に二人は衝突してしまう。仁は、「ナギ」とは何者か、という地雷を踏んでしまう。ナギは一人学校の屋上で思い悩む。そして、雨の中、ナギは二人の絆であるオオヌサを置いて独り立ち去る。

Kannagi11-3

 オオヌサを巡る絆の確認のエピソード、はアニメオリジナルである(まんが版は自転車置き場に落下する仁から始まる)。二人の絆の再確認、そしていつもの喧嘩とは違う不吉さを表すのにオオヌサは効果的に使われていた。

 けれど、25分足らずの物語の冒頭に仁とナギが絆を再確認するシーンを描き、視聴者にその記憶が新しい中で二人が喧嘩、しかも決定低的な喧嘩をしてしまうエピソードを入れるのはちょっと無理がある。視聴者の感情の流れがつい逆流してしまうのだ。結果として、ナギと喧嘩をするシークエンスが少し急すぎる印象を持ったし、その展開に感情移入がしずらくなっている。

#二人の「喧嘩」の直前に美少女ゲーム風イラストをバックに貴子が「スクールデイズ」とかいったりする。こ
れも感情の流れがストップしてしまうので、個人的にはちょっと疑問だった。

Kannagi11-5

 さて、本題である、仁とナギの喧嘩のシーンである。

 喧嘩のシーンでは、アニメ版と原作版との間で少しセリフが異なっている。この小さな変更点が、喧嘩の意図を大きく変えてしまっている。結論を先にいえば、原作ではナギが問題の中心にいるのに対して、アニメでは仁が問題の中心にいる。
 端的にいえば、原作版ではナギが怒るのに対して、アニメ版では仁が怒るのである。

⇒ 続きを読む
何が向こう側で起こっているのかはわからない。

ただ、ネットでは一連のアンチかんなぎの流れに位置づけて解釈されている。

たとえば、こんなブログ。
か ん な ぎ 連 載 休 止 決 定 ・゚・(つД`)・゚・

全然、的外れな可能性だってある。
けれど、そうなのだとしたら、最悪だ。最悪だとしか言えない。

『ゼロ年代の想像力』を思い出した。自分にだけ通じる小さな正義を振りかざす。その結果、ちょっとでもその正義に外れたものを排除する。そうする事でその小さな正義を維持しようとする。バトルロワイヤル的な状況と著者はいっていたが、まさにそれだ。

まんがが自分達の勝手な正義に反する展開をしたとして、その本をびりびりにやぶくというパフォーマンスをするか?作者に礼儀を欠いたメールを送ろうと掲示板であおったりするか?

そういう人たちは、自分達の正義が好きなんで、『かんなぎ』が好きなわけじゃない。
けれど、そんな人たちに『かんなぎ』という作品を、武梨えりという作家をつぶされては困るんだ。

ネットでは声の大きい人があたかも主流派であるかのように見えてしまう。
批判の方が言いやすいし。けど、実は違うだろう。普通に、『かんなぎ』の展開がどうなるかをwktkしながら待ってる人の方が多いはずだ。
作者の元には、批判メールがコピペで大量におくられているかもしれないけれども。

だから、おれはかんなぎについて、ここで、いかに好きか、何故面白いのかをしばらく語りつづけたい。

今回の物語は「つぐみ×仁」を中心に動く
 つぐみの中でのこれまで蓄積された「もやもや」が解消する回。

 メイド喫茶での決定的な敗北を感じたつぐみ。
 けれども、
 「私は仁が怒ってたらその理由がわかるし
  泣いてたって笑ってたってわかるよ
  だから怖いとかも思ったことないし
  仁は仁だよ
  だから安心して笑ったり泣いたりしていいんだよ」
 と、仁に向かって言える強さをつぐみは再確認する。

 そのきっかけをあたえる色々な会話がある。直接のきっかけは「ざんげ」との会話で、つぐみは「ざんげ」から仁を守らなければいけないと決意する。この回のクライマックスは橋の上で決意するつぐみであり、それを仁に伝えるつぐみである。そのきっかけとなる「ざんげ」との会話だけれど、セリフとしてはマンガ版と同じである。しかし、そこに間をいれたり、つぐみのリアクションを実に丁寧に捕捉したりすることで、なんともいえないふくらみが出てきている。

 橋はドラマが起こる場所である。
 つぐみは、一人、雨の中を、過去を振り返りながら進む。
 そして、決意をする。
 ここのセリフの切り出し方、演出、すべてがマッチしている。

 「仁がざんげちゃんとつきあう
  まわりの誤解を説く為に
  でもあの人、なんだか仁をもてあそんでる感じにしか
  (じゃあ、あなたがつきあう?)
  そんなの一番ありえない!
  だって、仁だよ!
  ずっと一緒で、ままごととかもしてたんだから。
  そんな対象になるわけないじゃない。
  なんでみんなそういう目でみるのよ
  おじさまにもたのまれたのに。
  そうだ。私が守らなきゃ。
  ざんげちゃんに話してる場合じゃないよね。
  ほんと、わたしがなんとかしなきゃ。

 決めのBGMも流れるし、つぐみの「決意」が原作以上に強調されている。

Kannagi9-2

 ここで、オママン原作の劇中劇が始まる(仁がつけっぱなしにしているテレビ)。
 「地震中継」を挟んでくるのは、なんとも小憎らしい。
 ドラマを最高潮に持ち上げておいて、そこで素直に落とさない。この間の置き方、照れ隠しともカオスともいうこの感覚が『かんなぎ』だろう。

 そもそも、つぐみが「守りたい!」と決意するきっかけは「ホモカップル事件」というどう考えても間が抜けているものなのだ。仁のつぐみのセリフと、つぐみから仁のセリフがそもそもつりあわないように設計されている。

 仁の風呂をのぞいてしまうつぐみ。

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作画監督は第三幕「スクールの女神」とかぶる。

脚本:本田透
絵コンテ・演出:ひいろゆきな
作画監督:河合拓也 亀谷響子
作画監督補佐:後藤孝宏
制作:A-1 Pictures

 今回の脚本が本田透氏、次回の脚本が高橋龍也氏となっている。
 倉田氏の脚本にしては珍しく、ゲスト脚本家が二人迎えられているという形になっている。

 第八幕「迷走嵐が丘」と次回の第九幕「恥ずかしい学園コメディ」は二話でひとまとまりになる。ゲスト脚本家同士がバトンを渡し、第八幕でばらまかれた伏線を、第九幕で回収する。という構成である。

 高橋龍也氏といえば、代表作は『雫』『痕』『To heart』と、ビジュアルノベル/ノベルゲームにある種のモードを作り出した張本人である。PCゲームに限らず、小説やマンガに至るまで雨後のタケノコのように様々な亜種が生まれたが、オリジナルに近い人である(*)。

(*)という認識をしているのですが、ちょっとおかしくねという人はコメントなどいただければ幸いです。

 で、本田透氏といえば、『電波男』が有名である。いうまでもなく、「ある種のモード」を象徴する人物であろう。『電波男』は『電車男』に対するメッセージである。すなわち、『電車男』ではオタク男子がエルメスという普通の女性に恋をし、2ちゃんねるの住民の力を借りて脱オタクをし結ばれるというストーリーである。オタクにとっての理想の物語というように解釈されるが、果たしてそうであろうか。
 本田透は、「脱オタク」を何故しなければならないのか?という問題提起をしたのである。オタクは脳内の彼女と共にオタクとして生きれば良いのではないか、と「電波」と自嘲しながら、同時にそれ以外ありえないという切迫を持って主張をした。
 そういった「思想」は「ある種のモード」を代表している。

 では、『かんなぎ』である。
 今回の第八幕に関しては、おはなしにケリをつける/伏線を回収する/風呂敷をたたむという事を意識せず、開けられる引き出しは全部開けました!というような印象が強い。ストーリーの根幹としては、ナギの別人格の顕現とその後のナギであるとか重要な部分も描かれたわけだけど、水と油のような気がしないでも無い。
 小ネタはいっぱい散らばっている。大鉄×仁なんぞ考える人にとっては今回はどうしても参照しなければならない回になるはず(あとは、原作の中学校時代のエピソードとかはマストだろうか)。

 本田透「らしさ」といえば、「過剰な妄想/電波にふける大鉄」、『電波男』でも展開されたモテ/非モテを中心にしたピラミッド構造を妄想する大鉄など。大鉄=本田透というような見立てでもって、暴走していた。

 おそらくは、賛否両論であると思う。
 大鉄をあそこまでいじってしまうと、原作原理主義者的な視点からいえばきついだろう。
 とはいえ、二次創作としてはありだとも思う。武梨えりも『かんなぎ』を二次創作的につくっている所もあるわけだし…と考えると微妙な所である。

 ただし、今回の評価は、次回の第九幕「恥ずかしい学園コメディ」と合わせて考えるべきだろう。
 大鉄と仁とナギという奇妙な三角関係を過剰に妄想気味に作られたのが今回であると思う。

 次回、そういった三角関係を「恥ずかしい学園コメディ」がどのように風呂敷をたたんでくれるのか。それによって、第八幕の位置づけが定まるように思う。
 自己言及タイトルが少し気になるけれど…。



と、今回ちょっと披露気味なので取り急ぎ。
深夜に余裕があったらもう一回更新するやも。

オリジナル回なのでもしやと期待していたが、山本寛絵コンテ回。

しかし、冒頭の数カットが、徹底的に動かない。

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Kannagi-7-2

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Kannagi-7-4

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