戯言と作品レビューや分析のブログとその時の思いつき。

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 サマーウォーズの監督・作画監督コンビである細田守×青山浩行の対談を読んでいて、目から鱗が何枚も落ちた。


細田 (……)以前、僕が東映で先輩演出家の人たちに教わったことといえば、とくに幾原邦彦さんからですが、演出の付け方には二種類あると。ひとつは、「表現派」、もうひとつは「芝居派」だと。芝居派というのは、キャラクターの演技や感情表現を、アニメーターの動きや表情に頼って演出することです。それに対して表現派は、アニメーターの芝居に頼らず、なるべく絵コンテの表現で作品のおもしろさを保証するという演出のことです。主に、東映では、芝居派の演出をすると失敗すると言われていて、なるべく作画の力を当てにしないで演出をしろと教わりました。
「『サマーウォーズ』のキャラクターの演技はいかにしてできたか? 細田守×青山浩行 対談」『PLUS MADHOUSE 3 細田 守』p.141


■環境制約が二つのスタイルを産んだ


 この「表現派」と「芝居派」という区別は見事に日本の商業アニメーションの表現スタイルを分割している。
 一言でいえば、作画主導=「芝居派」、演出家主導=「表現派」となる。

 この引用のあとにある、東映動画内では芝居派の演出家は評価されなかったという発言が面白い。東映動画ではテレビシリーズでは厳しい枚数制限がある、また上手いアニメーターは映画を担当しテレビシリーズには回ってこない。テレビの演出家の元には相対的に下手なアニメーターしか残っていないのだから、芝居=アニメーターの力に頼る演出家は二流という事になる。「幾原(邦彦)さん自信、『美少女戦士セーラームーン』を、毎週3000枚どころか、2000枚でもおもしろく魅せていた。」と同対談で細田守は語っている。日本の商業アニメに横たわる環境制約が、作品内容だけではなく、アニメーターとしての評価をも決めている。

 自身の東映アニメーション時代を振り返り「基本的には作画監督の山下(高明)さんの持つ強烈なレイアウト力だけが武器」との発言も残している。絵コンテだけで面白いものを作る必要がある。そういった環境制約の中で、同ポという手抜き技を演出の力で魅力的なシーンに仕立て上げるという細田演出が生まれてきたのだと考えられる。影無し作画も同様に省力化の技法だ。



■演出のスタイルと作品内容の関係について


 次に、細田守はアニメーションにおける本質的な問いを投げかける。


僕は、表現派では豊かな作品にはなりづらいと思っています。社会をシニカルに眺めたり、暗部を描くためには、表現派はスマートな手法なわけ。でも、カメラが芝居しすぎて、演出の意図がうざいと思われる。それって映画の楽しみじゃなくて、巧い動きをテクニック的に楽しんでいるのと変わらない。テクニック偏重と同じ意味になっちゃうんですね。明るい題材には、必ずしも適した手法ではないんです、表現派というのは。(p.149)」

「これはアニメに限らず言えることだと思いますが、シリアスなものを作る方が簡単なんですよね。人間はこんなにダメだ、とか、世界は終わる、とかいうほうが表現しやすいわけ(p.148)」
同上

 コミカルで楽しい演技をするためには人間に対する肯定的な目線をアニメーターが持っている必要があるとしている。アニメーターがキャラクターに演技をさせるわけなので、アニメーター自身に世界の肯定感が無ければ楽しい演技は成立しない。また、アニメーターの演技を抑圧する「表現派」では、感情の表現は難しいという事だろう。

 もちろん、細田守は「表現派」と「芝居派」の向き不向きを話している。視聴者的感覚からしても、「表現派」の作品がつまらないとも思わない。題材によって、向き不向きがあるという話である。「表現派」の流行と、王道たるちょっとコミカルで楽しいアニメがぽっかり抜けている事に気がついて『サマーウォーズ』を仕掛けてきたわけだ。


■例>サマーウォーズと化物語


 『サマーウォーズ』は、生粋の「表現派」だった細田守が『時をかける少女』をきっかけに、宮崎駿の遺産たるテレコムアニメーション出身のアニメーターと出会い、そこで感じた「演技派」に対するカルチャーショックを活かした布陣で臨んだ作品という見方ができる。

 逆に、テレコム出身の青山浩行は細田さんの絵コンテで作業できることは幸せだというような発言も残している。「芝居派」と「表現派」を融合させるべく作品作りが志された事がわかる。

 で、この「芝居派」と「表現派」の対比は、すごく汎用的だ。現代の深夜アニメ界の人気を二分する、シャフトと京アニの基本的スタンスとも重なるように見える。

 『化物語』を放映中のシャフトは、まさに「表現派」の代表選手である。デジタルアニメの利点をフルに生かして省力化かつ、魅力的な画面を構成することに徹している。読ませる気のない旧かなつかいのタイポグラフィの連打、極端な画面の色合い、実写との融合、3DCGの多用などなど。

 先に引用した「芝居派」への評価はまるで『絶望先生』や『化物語』を評しているようにも聞こえてくる。

 作品の内容以上に演出家のテクニックを見ているという指摘。『絶望先生』と『化物語』の間には強烈なデジャブ感がある(そもそも、近年のシャフト作品は独特の演出方法を常に進化させ続けており、連続性がある)。
 例えば、旧かなつかいの羅列。これは、昭和趣味といおうか独特のレトロな感じが表現されているし、字体とそのレイアウトは美しい。だが、大正風味が作品に漂う『絶望先生』ならまだしも、現代を舞台にした『化物語』の世界でそれが展開されるのには違和感がある。ここでは、作品を見せる為の演出ではなく、演出を魅せるための作品という転倒があるように見られる。「それって映画の楽しみじゃなくて、巧い動きをテクニック的に楽しんでいるのと変わらない。」という状態になっていないだろうか。

 アニメ『化物語』は面白いんだけれども、同時に西尾維新の原作が持っていた独特の味わいをばっさりと切り落としているようにも見える。

 例えば、アニメ版の『化物語』の風景はいびつだ。PCの世界で作られた人工風景である事を自己主張している。細田守のデジタル世界描写があるが、あの世界観で日常の風景を描いているような印象を受ける。


2009-09-13-1-12009-09-13-2-1
上二枚は、化物語 #5より

 西尾維新の会話をアニメ上で見ていて、こういった戯れの言葉を紡ぎ出す才能は半端ない事を再確認した。おはなしの転がし方だったり、こういった足腰の強さといおうか翻訳しても消えない「面白さ」は確かにある。だけれども、読後感は全く違う。もっとも、違うからこそ、アニメで『化物語』を楽しんだ後に、小説を読む楽しみがあるといえるのかもしれない。



追記:06:00
ちなみに、八九寺編のオープニングディレクターの板垣伸はテレコム・アニメーション出身。自身がこのオープニングについて語っている。動かす事の気持ちよさが映像に満ちていて、化物語の他のオープニングと比べてもベクトルが違う。

丁度良い比較かと思うので、youtubeのOPを下に引用。

追記:09.14
強調を追加。引用部分強調も含む。
見出しも追加。
youtube動画を追加。
⇒ 続きを読む
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