戯言と作品レビューや分析のブログとその時の思いつき。

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ネットのどこかで『かんなぎ』は『とらドラ!』と比べてラブコメとしての品質が悪いと宇野常寛がサイゾーに書いてあったと聞いたんだけど、実際にサイゾーの記事を読むとこれは完全に誤り情報。勝手な読み方しすぎです。二次情報・三次情報が独り歩きするのが嫌なので、以下に該当箇所を載せておきます。

更科修一郎と宇野常寛が2008年の作品を小説/ドラマ/映画/アニメなどのジャンル毎に褒めたり貶したりするという企画の中での一幕。

更科(中略)『とらドラ!』(テレビ東京)もストーリー的にはまったく共感できない学園ラブコメだけど、実写映画・テレビドラマ調のメリハリの利いた演出だけで十分見られる。もともと、元京都アニメーションの山本寛が得意とする方向性なんだけど、これと比べると、ヤマカンの初監督『かんなぎ』(東京MXなど)はちょっと苦しい。

宇野 ヤマカンの実写映画・ドラマ好きとオタマッチョ全開の脚本の相性がもう、悪いこと(笑)。

更科 それもあるけど、ウェルメイド志向の京アニでは抑えられていた自意識が解放されて、逆に娯楽作品としてのバランス感覚を崩したような気もする。全体としては高いクオリティなんだけど、なぜか観ていてつらい。
「サブカルチャー最終審判 #9」p.110『サイゾー2009/2号』


 これ、あくまでも『とらドラ!』とは映像演出面で比較されているわけだし、喋っているのは更科さんだし。

 ネット上での噂話は怖い!という話でした。
 両氏にゆるゆると応答してみたものは、以下に書いたのでどうぞ。

#サイゾーっていえば、ジャージ女の子じゃなかったっけ?あとは、山形浩生の巻末コラム。そんな時代の読者でした。
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第十三幕考察の後半です。

色彩の変化
 第十三幕、仁はナギに対する煮え切らない気持ちをふっきる。
 仁の気持ちを反映させるかのように、映像の色彩は移り変わる。空模様は、雨から曇りになりやがて晴間が覗くようになる。それに合わせて、画面を覆っていた灰色の光が取り除かれる。アニメーションで偶然映ってしまったものはおそらく存在していない。

Kannagi13-21
冒頭。ガラスが雨の湿度の高さで曇っている。

Kannagi13-13-1

授業中。曇り空の下、力なく走っている。

Kannagi13-14-1

放課後。つぐみと仁。青空と曇空が半分。

 つぐみに肩を押され、仁は悩みをふっきって自転車でナギの元へと向かう。
 自転車にまたがった仁を描く一連のカットでは、画面が仁と鮮やかな青空だけでレイアウトされている。前回あった白亜父との回想シーンがインサートされるが(そんな得体の知らないものと暮らしていて云々)が、このカットは鮮やかな青色とは対比的にモノクロになっている。また、口を結んだ仁の表情が、自信に満ちた表情になっているという対比も指摘できるだろう。

 そして、突き抜ける様な青空の中、仁は「だって楽しかったんだ」という言葉を宣言する。

 灰色からの解放と、仁の想いの解放。
 アニメーションで偶然映ってしまったものはおそらく存在していない。ゆえに、画面には仁と青空しか写っていない。下に引用した最後のカットは、ほとんど青空がメインといってもいいレイアウトになっている。そして、仁は鮮やかな緑色の中でナギと再会する。

 仁が決意をした段階で物語を支えるベクトルは定まってしまったように思う。ここまでお膳立てされた状況下で、ナギと会えば抱きしめる以外の選択肢はありえないのである。以下に一連のカットを並べてみたけれど、それだけで一目瞭然ではないか。

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Kannagi13-19-1

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前回の更新からかなり間が空いてしまいました。
放送に合わせて更新してきたので、イレギュラーになってしまい申し訳ないです。
が、『かんなぎ』最終話の考察をお送りします。
まずは前半。

*

つぐみの視線
 第十三幕から一つカットを選べと言われたら、このカットしかない。

Kannagi13-1

 仁とナギが手を繋いだシーンの後、掲示板の書き込みが画面に写っているカットだ。
 「ナギ様、仁君と一緒にいたね。」
 「手つないでたよ♪」
 といった、他愛の無い会話がなされている。

 表面的にはナギと仁の様子を実況している掲示板だが、それ自体にはあまり意味が無い。この書き込みを見ているのは、つぐみなのだ。第十三幕を通して、掲示板の書き込みを見ているのはつぐみしかいない。
 1秒にも満たない、瞬きをすれば終わってしまうカットだ。ストーリーはすぐに仁とナギにフォーカスされる。しかし、つぐみの心情や姿は我々の脳裏に焼き付く。

 クレショフ効果だとかモンタージュだとかいう言葉がある。無表情な男性のカットに続けて料理のカットを繋げた映像を見ると、空腹な男性という印象が得られるというアレである。映像と映像が化学反応を起こして、全く新しい内容が生まれる、映像が映像である理由。

 映像/アニメーションで、感情を描くにはどうすれば良いのだろうか。暗く沈んでいるつぐみの表情を捉えるのも一つだろうが、ここではつぐみを描かないという手法がとられている。正確にいえば、カットとカットの間につぐみの感情を生じさせたのである。[ナギと仁が手を繋ぐ]カットと[つぐみの視線]を表すカットの間には、確かにつぐみの感情が存在している。

 映像の力はカットのカットの間に生じる。その描かれないものは視聴者の中でいかようの形も取りうる。しかし、描写の積み重ねで縛り付けて形を取らせるのが演出家の仕事だろう。

 仁とナギが手を繋いでいるという事実をつぐみは、掲示板の画面を通して知る。それは傍観者としての立場ではない。つぐみはこの結末を覚悟した上で仁の背中を押したのだろう…といったつぐみのやるせなさを一瞬にして我々は受け取ることができる。

 この描かれないものを描くために、一つ一つの描写が積み重ねられている。また、直接描かれない故に表現される感覚ともいえる。いわば上澄のようなカットなのである。つぐみ派としては、このカットを選ばないわけにはいかない。

つぐみの決意
 一つの飛躍を生む為に、つぐみの仁を想う描写が積み重ねられる。シリーズ全体を通しても、メイド喫茶に取り残されるつぐみだとか、「仁を守らなきゃ」と決意をするつぐみだったり、仁への想いが画面に出てくる。前回のエントリでは第十二幕の仁の動きにフォーカスを当てたが、つぐみが仁を想う気持ちも描かれている。

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 前回(第十一幕)で、ナギと仁は喧嘩をする。
 「ナギは何者なのか?」という問い。それは、ナギにとっても「わからないということさえわからなかった」という「地雷」だった。そして、売り言葉に買い言葉。前回の最後、ナギはどこかに消え、オオヌサだけが屋上に取り残された。

 そして、第十二幕「ほんとうにエフェメラル」。
 第十二幕「エフェメラル」では、独り残された仁を描く。シリーズ構成にしろ、演出にしろ、作画にしろ、演技にしろ、全てがからみあった凄い回だった。

 「エフェメラル」では、仁しか描かれない。ナギは完全に姿を消して、画面に現れる事もない。唯一出てくるカットは、仁の夢の中で死体となったナギである。声すらも、仁の幻聴という形でしか登場しない。徹底的なナギの不在、そして、その現状を受け入れ、立ち向かい、絶望する少年の姿が描かれる。
 それ以外は描かれない。素晴らしい決断。

■仁が独りになった40時間
 久しぶりに、映像に「時間」が流れている回である。仁が経験する「ナギの不在」という40時間を徹底的に描こうという演出家の、固い意思を感じる。
 「エフェメラル」では、ナギと喧嘩別れした後から翌々日の朝までの約40時間、仁の姿をたんたんと追いかけている。そこでは、ドラマは起こらない。
 ドラマが生起しないが故に引き延ばし策であるという意見もあるが、それどころか、ドラマが起こるまでのエネルギーが内に内に溜め込まれていくシリーズ構成上欠かせない回である。緩急のついたシーンとシーンの繋がり方、どこを切っても絵になる練り込まれたレイアウトなど、映像としての緊張感も高い。何よりも仁と共に仁の焦りや後悔が煮詰まる様子が、仁の行動や表情、そして40時間という時間が語りかけてくる。

 順番に見て行こう。


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 カラオケ回だけで、一話。
 そういう思い切りの良さが、山本寛っぽい。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』にはまったきっかけ、山本寛という人を意識せざるを得なかったきっかけが、放送1話「朝比奈ミクルの冒険」だった。ここでは、最初から最後までハルヒ達が文化祭用に撮った学生映画が流れる。その学生映画を再現する為に、逆光・手ぶれ・矛盾のある演出まで、考えられる技巧が凝らしてある。そして、大事なのは「朝比奈ミクルの冒険」がDVDの特典映像ではなくて、放送の1話目で流れたという事だ。私を含めて、初めてテレビアニメでハルヒを知った人の驚きやいかん。これは劇中劇なのだと途中で気がついた時の感激やいかん。なのである。

 こういう視聴者への挑戦とも信頼とも取れるシリーズの構成をしてくるあたりに同じ匂いを感じる。

 アニメオリジナル回だと誤解している人も多いのだが、原作にあるカラオケ回を膨らませたもの(3巻に収録)。

 まんがでカラオケを歌うという回を描く武梨えりも武梨えりだが、それを受けて、神前暁に作・編曲して歌わせる山本寛も山本寛だ。
 ざんげちゃんはアニメオリジナル楽曲であるが、それ以外の楽曲は、原作ではサビだけ歌っている曲にそれらしく作曲をして、前後の部分も補完したものである。それぞれの曲の作詞は武梨えりとはなっていないが、曲の方向性/コンセプターはいうまでもなく武梨えりのものである。

 余談だが、作詞/作曲 武梨えりである所の『ハロー大豆』がプチブーム中。こんな動画なぞ。

 さて、今回はアニメ版かんなぎの収穫ともいえるエピソードだった。
 カラオケの隣に座って欲しくて微妙な仕草をする「つぐみ」、ざんげと目線でやりとりをしてちょっと怒る。それだけで可愛いのだ。

 カットをテンポよく積み重ねる事で、説明過剰にならずさらっと状況を表現している。
 以下に見てみよう。

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この第十一幕から最終回の第十三幕までは、ナギと仁を中心に物語が進む。

ナギと仁が喧嘩をする。

問題の種となるのは、『ナギ』とは何者なのかということだ。
ナギは悩み、仁はそんなナギを受け入れようとする。

第十一幕では、「オオヌサ」を象徴的に使っている。

 オオヌサはボロボロになってしまっている。パワーアップしたいというナギだが、余計な出費をしたくない仁は軽く拒否する。しかし、仁はそのボロボロになったオオヌサに、今までナギと過ごして来た時間を思い出す。仁は、ナギが風呂に入っている間に、オオヌサを修理する(おそらく半紙を張り替えたり、汚れた箇所を拭き取ったり……)。

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 ナギは風呂上がりに修理されたオオヌサを見つける。そして、ナギは皿を洗っている仁の所に行く。「三千円くらいまでなら」と譲歩する仁を遮って、「これでいい」と言うナギ。そして、「明日からこれでばりばり祓う!仁も頼むぞ!」と言うのだが、その表情はなんともいえず、嬉しそうである。

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 しかし、その翌日に二人は衝突してしまう。仁は、「ナギ」とは何者か、という地雷を踏んでしまう。ナギは一人学校の屋上で思い悩む。そして、雨の中、ナギは二人の絆であるオオヌサを置いて独り立ち去る。

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 オオヌサを巡る絆の確認のエピソード、はアニメオリジナルである(まんが版は自転車置き場に落下する仁から始まる)。二人の絆の再確認、そしていつもの喧嘩とは違う不吉さを表すのにオオヌサは効果的に使われていた。

 けれど、25分足らずの物語の冒頭に仁とナギが絆を再確認するシーンを描き、視聴者にその記憶が新しい中で二人が喧嘩、しかも決定低的な喧嘩をしてしまうエピソードを入れるのはちょっと無理がある。視聴者の感情の流れがつい逆流してしまうのだ。結果として、ナギと喧嘩をするシークエンスが少し急すぎる印象を持ったし、その展開に感情移入がしずらくなっている。

#二人の「喧嘩」の直前に美少女ゲーム風イラストをバックに貴子が「スクールデイズ」とかいったりする。こ
れも感情の流れがストップしてしまうので、個人的にはちょっと疑問だった。

Kannagi11-5

 さて、本題である、仁とナギの喧嘩のシーンである。

 喧嘩のシーンでは、アニメ版と原作版との間で少しセリフが異なっている。この小さな変更点が、喧嘩の意図を大きく変えてしまっている。結論を先にいえば、原作ではナギが問題の中心にいるのに対して、アニメでは仁が問題の中心にいる。
 端的にいえば、原作版ではナギが怒るのに対して、アニメ版では仁が怒るのである。

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今回の物語は「つぐみ×仁」を中心に動く
 つぐみの中でのこれまで蓄積された「もやもや」が解消する回。

 メイド喫茶での決定的な敗北を感じたつぐみ。
 けれども、
 「私は仁が怒ってたらその理由がわかるし
  泣いてたって笑ってたってわかるよ
  だから怖いとかも思ったことないし
  仁は仁だよ
  だから安心して笑ったり泣いたりしていいんだよ」
 と、仁に向かって言える強さをつぐみは再確認する。

 そのきっかけをあたえる色々な会話がある。直接のきっかけは「ざんげ」との会話で、つぐみは「ざんげ」から仁を守らなければいけないと決意する。この回のクライマックスは橋の上で決意するつぐみであり、それを仁に伝えるつぐみである。そのきっかけとなる「ざんげ」との会話だけれど、セリフとしてはマンガ版と同じである。しかし、そこに間をいれたり、つぐみのリアクションを実に丁寧に捕捉したりすることで、なんともいえないふくらみが出てきている。

 橋はドラマが起こる場所である。
 つぐみは、一人、雨の中を、過去を振り返りながら進む。
 そして、決意をする。
 ここのセリフの切り出し方、演出、すべてがマッチしている。

 「仁がざんげちゃんとつきあう
  まわりの誤解を説く為に
  でもあの人、なんだか仁をもてあそんでる感じにしか
  (じゃあ、あなたがつきあう?)
  そんなの一番ありえない!
  だって、仁だよ!
  ずっと一緒で、ままごととかもしてたんだから。
  そんな対象になるわけないじゃない。
  なんでみんなそういう目でみるのよ
  おじさまにもたのまれたのに。
  そうだ。私が守らなきゃ。
  ざんげちゃんに話してる場合じゃないよね。
  ほんと、わたしがなんとかしなきゃ。

 決めのBGMも流れるし、つぐみの「決意」が原作以上に強調されている。

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 ここで、オママン原作の劇中劇が始まる(仁がつけっぱなしにしているテレビ)。
 「地震中継」を挟んでくるのは、なんとも小憎らしい。
 ドラマを最高潮に持ち上げておいて、そこで素直に落とさない。この間の置き方、照れ隠しともカオスともいうこの感覚が『かんなぎ』だろう。

 そもそも、つぐみが「守りたい!」と決意するきっかけは「ホモカップル事件」というどう考えても間が抜けているものなのだ。仁のつぐみのセリフと、つぐみから仁のセリフがそもそもつりあわないように設計されている。

 仁の風呂をのぞいてしまうつぐみ。

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オリジナル回なのでもしやと期待していたが、山本寛絵コンテ回。

しかし、冒頭の数カットが、徹底的に動かない。

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今日は時間があるので、丁寧に語ってみたいと思います。

序。
 印象に残ったシーンは二つある。
 一つ目は、つぐみが仲間達が居なくなったメイド喫茶の中で一人片付けをしている所、
 二つ目は、ナギが夕日の中、仁に嫌われているのではないかと不安になって話しかける所だ(*)。

Kannagi6-1Kannagi6-2Kannagi6-3

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 つぐみもナギも仁にちがった種類の「片思い」をしている。ちょっとしたすれ違い。そのちょっとしたすれ違いが持っている痛みがそのシーンには現れている。恋をしたら誰しもが感じる様な痛み。「片思い」をしている相手が、自分の事を好いてくれているのではないかという期待と、自分のことなぞはどうでもいいと思っているのではないかという不安。その関係性が、確定しないから生まれる痛み。

 『かんなぎ』という物語、一見、仁を中心としたハーレムものに見える。しかし、ここでは仁を媒介として、つぐみやナギという女の子の心情を描いているのである。
 武梨えりの特異性は、乙女ちっくな感性と繊細さをオタちっくな表層とネタ化で包み込んでしまうことにあるのではないか(**)。アニメ版では原作にあったこの要素を映像の力で、強調している。

 だからこそ、男の子の願望としての女の子ではなく、対象としての女の子を描けているのではないか。だからこそ、『かんなぎ』は生っぽいのではないか。

(*)このエントリではこのシーンに向けての伏線を拾う予定だが、このシーンを単体でとっても非常に繊細にできている。
1カット目。つぐみが片付けをしている時のテーブルのリアルな汚さ。そこにはメイド喫茶というファンタジーではなくて、ウエイトレスのアルバイトという当たり前の日常が広がっている。
2カット目。そして、つぐみの物思いにふける顔が映し出される。そこで一瞬動きが止まる。この一瞬の静止によって視聴者につぐみの感情が叩き込まれる。
3カット目。一人取り残されるつぐみ。今までの狂騒と対比的に、つぐみは一人取り残される。彼女はこの状況の風景に過ぎず、それが彼女の切なさを表してもいる。

(**)那須きのこが王道の物語を、様々なギミックで煙に巻くのに似ているかもしれない。那須きのこと武梨えりは、この照れくささの系譜で結ばれている。山本寛が演出の参照軸として80年代ドラマを持ち込んだのは、この照れくささをはがそうとする演出家の豪腕なのかもしれない。

⇒ 続きを読む

冒頭の料理対決から始まって、翌朝の学校での一騒動。ナギ様ファンクラブというのがひそかにつくられていて、それが学校側にばれてしまって……。

 ナギ様ファンクラブを知った時に嫉妬する仁だったり、おひたしとほうれん草を作るつぐみだったり、学校でチヤホヤされて嬉しそうなナギだったり、白亜父に質問されて「学校に来る事には意味がある」と断言するナギだったり、姉妹喧嘩をするざんげだったり、まじめっ娘な白亜だったり、一つ一つの行動に今までのおはなしでの彼らの行動や思いが反映されていて、嬉しい。

 マンガを何年か前に読んで、何回か読み返して、アニメを見て、マンガを読み返して、アニメをもう一回みたりする。そうやって作られて来た頭の中にある『かんなぎ』要素が反応する。
 例えば、冒頭の料理対決で、ざんげに抗う白亜が描かれるけれど、これは原作五巻(白亜メイン巻)を知ってから見ると味わい倍増である。仁と白亜にも少しばかりの縁があって、あのシーンは仁×白亜×ざんげという奇妙な三角関係を、ざんげ一人で立ち回っているという二周目だとわかる面白さがある(別に、時系列順に物語が進む訳じゃないので、5巻のネタが2巻のネタの伏線になることもある)。

 ナギ様ファンクラブの掲示板での書き込みとして、山本寛と倉田英之が登場。山本寛はもはや定番の「監督の域」ネタ、倉田英之は女は紙とJPGに限るというこれも定番ネタ。

 サプライズで、ぱにぽに風のアイキャッチで、武梨えり(声の出演:武梨えり)でついに登場。「かんなぎ。」とつぶやいておられました。予告も武梨えりで、「次回もみてね☆」と言ってました(どうせなら、「おやすみなさい。おにいさま」とか言ってほしかったような…)。

 山本&倉田&武梨が出演して嬉しいと、武梨えりの生声が聞けて嬉しいと。これは、狭い狭い領域であると思う。アニメを見ている人も狭い領域なら、その中で、山本&倉田&武梨も知らない人の方が多いんではないだろうか。けど、その狭い三角形の内側にいる者にしてみれば幸せな一時を過ごせた。

 きっかけは『ハルヒ』であって『かんなぎ』であった。それで作家を追いかけて、『かんなぎ』をきっかけに『かみちゅ』『バンブーブレード』『大運動会』と倉田脚本を読んだり、『倉本』を買ったりして。元ネタが大体わかる感じ。アニメを通してコミュニケーションが成立しているんだなあという感覚。
 結構、タフなファンサービスだと思うんである。

 次回は、つぐみとナギがブラを買いに行くという原作必至の展開で…。

スタッフ
絵コンテ:平池芳正
演出:山内東生雄
作画監督:浦和文子、吉田優子
制作協力:遊歩堂

絵コンテの平池芳正さんについては前回を参照のこと。
演出の山内東生雄さんは、『西洋骨董洋菓子店』#10(「鼓動の異味」)や『なるたる』#12(「わたしの目は被害者の目 わたしの手は加害者の手」)、『ゼロの使い魔』#7(「ルイズのアルバイト」)の演出。
作画監督の浦和文子さん、吉田優子さんはマジカノ#10(「呪いの猫パンツってマジですか?」)でも同じコンビで仕事をしている。こちらも、制作協力が遊歩堂なので、遊歩堂の中の人であろう(遊歩堂のwikipediaはこちら。
制作元請けが主の会社のようで、絵コンテの平池芳正が監督をした『スケッチブック』でも制作元請をしている。そのつながりだろうか。

スタッフ
脚本:倉田英之
絵コンテ:平池芳正
演出:森義博
作画監督:古川英樹
製作協力:スタジオパストラル

絵コンテの平池芳正は、『ARIA The NATURAL』の脚本・絵コンテ・演出、『SoltyRei』『スケッチブック ~full color's~』などの監督。
で、『スケッチブック』といえば、
演出:山本寛 & 作画監督:三間カケル & 制作協力:Ordet
という『かんなぎ』のコアチームが、11話「風邪の日と、ねこねこpart3」を担当している。
きっと、そっちを手伝うからこっちも手伝ってくれというようなやりとりがあったのではないかと邪知。

『スケッチブック』の第一話を見てみると、『かんなぎ』の第四話で目立った、ゆっくりと雲を引っ張る演出が多用されていたりして、同じ人が関わっているのだと実感。
平池芳正は『かんなぎ』の第五話でも、絵コンテを担当している。

Kannagi4-1

演出:森義博 & 作画監督:古川英樹という二人は、
きっと4話を下請けで作ったスタジオパストラルな人達。

以前には、絶望先生(二話/七話/十一話)などを同じコンビで担当している。
スタジオパストラルは、『月詠』が初グロス請けという事もあって、シャフトとのつながりが深いみたい。

・参考ウィキペディア
-スタジオパストラル
-平池芳正

こうやって、人と人とのつながりでアニメというのは作られて行くであるな。

アニメっぽさ
 凝ったレイアウトや、緻密な背景、キャラクターの仕草の表現といった今までの『かんなぎ』の特徴は影を潜める。
 限られた動き、限られたレイアウトの中で、間やネタで見せていくような、テレビアニメでよくある絵作りになっている。

⇒ 続きを読む

メインスタッフ
脚本:倉田英之
絵コンテ:五木巌
演出:平向智子
作画監督:後藤孝宏、亀谷響子

 絵コンテの五木巌さんは、検索してみた所、他の作品では見当たらなかった。けど、「ゴキゲン」だからなあ。事情がある京アニスタッフを指し示しているっぽい三間カケルさんもいるわけだし、偽名の人なのかもしれない。

 演出の、平向智子さんは地獄少女2期/3期のエンディングの演出をされている。「地獄少女」本編の演出は、第二期の最終回を連名で演出に加わっているのみだが、この『かんなぎ』第三幕「スクールの女神」で見られる、ホラー演出には地獄少女での経験が生かされていたりするのだろうか。

 作画監督の後藤孝宏さんは、『おおきく振りかぶって』『PERSONA』などA-1 Pictures作品で原画を多くされている。
 もう一人の、作画監督の亀谷響子さんは、ぱにぽにだっしゅの原画/ファッションコーディネーターの人。毎週、週代わりでベッキーに色々な服を着せていた人ですね(詳しくは、ぱにぽに公式ガイドブックの2~3を参照のこと。スタッフインタビューが多数あります)。

以上、出典はアニメスタッフデータベースより。

おはなし
 コミック1巻「第四幕 スクールデイズ」と、「第五幕 放課後の女神」(で、合わせて「スクールの女神」ここら辺の考察?は前のエントリをどうぞ)。
 仁の部活「美術部」での面々が描かれる。そして、部活メンバーと美術部の準備室の地下に何かがいるという怪談話。学校での怪談にケガレのにおいを感じて興味を持ったナギが、無理矢理に学校に押し掛けて、地下室でみたものは…。というようなおはなし

前半のアニメ的な表現
 1話2話とは異なり、前半ではアニメ的な表現が目立つ(1話にしろ2話にしろ、キャラクターをデフォルメしたりする箇所はあるが)。
 キャンバスに絵の具をぬりたくる大鉄であるとか、怒りのあまり変化してしまう秋葉であったり。

Kannagi3-10Kannagi3-11

 キャラクターAのセルとキャラクターBのセルを反対方向に引っ張ったり(下の仁と秋葉のカットは仁の後頭部は左に、秋葉は右にちょっとづつずれている)、パターン化した動きを一つのシーンの間中繰り返したり(下のマンガを書く秋葉はペンを左右に動かしている)、ズームとパンの多用といったような、アニメならではの省力化が目立った。

 クオリティの低下というよりは、演出のベクトルが異なっている感じだろうか(個人的には貴子の鼻血を吹き出す際の腰の角度は再現して欲しかったが)。

 1話、2話の質と量で突っ走れるわけがないのはわかっている。
 どういう綱渡りを見せてくれるのか、不安まじりに期待している(ただ、上から目線で語るのも失礼な気がするし、だからこそ、本編を見る前にDVDを予約しなければならないというのが、視聴者の倫理観だと思う。あえて言過ぎてみる)。

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学校という空間
 この第二話では、仁の家と学校が主な舞台だ。

 学校での一連の流れ出は、建物のカットやロングショットが多用されている。キャラクターがメインのカットでも、高校の建物としかいえない個性をもった風景が並んでいる(例えば下の取っ組み合いをする仁とナギ。日本の高校以外の何者でもない雰囲気がある)。
 また、ロングショットとしても、死んだ風景ではなくて、生徒がモブとして動いている。

Kannagi3-14

 学校という空間の表現の一例として、グラウンドの前の通路の同ポ(同一ポジションの略?)を取り上げてみよう。

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