戯言と作品レビューや分析のブログとその時の思いつき。

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※タイトル変更しました:旧>シミュレーションとしてのアニメーション:アニマス1話のモキュメンタリーをみて

■ドキュメンタリー風の演出
アイマスの第1話は、ドキュメンタリー風の演出がされています。
#直接のパロディ元は『プロフェッショナル』でしょうか。
#黒い背景に中央1行で白テキスト・さらにそこに重なるピアノのポーンという音、小鳥の紹介の字幕など

 最後にはこのドキュメンタリーのカメラマンとして新人プロデューサが参加していたという事が明かされて、話のオチになっています。今まで見てきた画面は、新人プロデューサーの視線でしたと、ひっくり返されます。同じように画面を見ている視聴者=新人プロデューサになるというそういう仕掛けです。

 この設定を知ってから見直すと味わい深いものがあります。 カメラマンに怯える雪歩だったり新しく入ってくるプロデューサーの話題をしながら目配せをする律子と小鳥だったりと、カメラマンに対してリアクションをするアイドルの皆さんが丁寧に描かれています、
 前半部分では(あなたにとってアイドルとは何ですか?という質問まで)早朝からはじまって日が暮れて夜になって終わるまでの時間の経過が描かれます。 丸1日の密着取材で、事務所の中やCDの販促、オーディションやライブ会場を巡って765プロ所属のアイドル達と出会ったというわけです。

 ドキュメンタリー演出として白眉なのは、後半部分の「あなたにとってアイドルとは何ですか?」という質問に答えるアイドル達が次から次に映し出されるパートでしょう。次から次にアイドル達が登場するのですが、前半部分と同じ背景・同じ構図で描かれます。美希はジャージを来て床にぺたりと座り込んでいる。貴音は屋上で髪をなびかせている。

 これらは撮影したフィルムを編集して、一本の映像にまとめた、という演出です。当然ながら、アニメーションはテープで取材者を様々な場所で撮影をしているわけではありません。が、そこに制約を加える事でドキュメンタリーっぽさを表現しているわけです。こうやって配置を変えるだけで、 そこには存在していなかった取材テープの存在すら浮かび上がってくる。見事です。

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『海がきこえる』のテレビ再放送が近づいて参りました。
若い頃には里伽子はどうして画面から出てこないのかと悶々としていた記憶もあったり、思い出深い作品なので楽しみにしています。

さて、宮台真司・石原秀樹・大塚明子『サブカルチャー神話解体』(1993)には、海がきこえるのチームに取材をしている箇所があるので少し紹介してみたいと思います(*)。

時代を感じさせるのは、この発言。

近藤 多くの背景を写真から起こしています。これは単純な模写とは違う。背景美術にも力がなければやれない方法です。
高橋 だから、こういう成功作(視聴率は関東で一七.四%)の後なのに類似企画が皆無。技術的にジブリにしかできないと思われたようです。


この手法は今や一般的ともいえる手法になっています。
『らき☆すた』のオープニングを鷲宮神社で踊ってみて、再現したヴィデオ映像なんてのはニコニコ動画で腐るほど見てきました。

私が意識するようになったのは、『涼宮ハルヒの憂鬱』や『らき☆すた』等の京都アニメーション作品ですが、他にも色々とあります。実際の映像と実写を比較されている方が何人もおられます。

『涼宮ハルヒの憂鬱』 / 『世紀末オカルト学院』(2010) / あの花。

そして 海がきこえるの聖地巡礼(高知・東京)をされている方もいます。

 「技術的にジブリにしかできない」手法が何故このようにひろく使われるようになったのかは非常に興味深い所です。

 アニメ制作のデジタル化がひろく可能にしたのか、アニメ背景の技術がこの十何年で成熟してきたのか、視聴者のニーズの向上に技術陣が応えたのか、昨今の背景トレス手法はジブリからしてみたら噴飯物なのか。いずれも仮説で、決定的な証拠が挙げられないのでこのあたりにしておきたいと思います (**)。

*

 ちなみにサブカルチャー神話解体での筆者達は『海がきこえる』に次のようなモデル化をしています。

アニメとしてはほとんど初めて少女マンガの高度な<関係性>を描いたこと(しかもそれが途中から少年マンガの短絡的<関係性>に変質してしまう)(……)
宮崎や高畑は、誰も気にとめない些細な振る舞いー煙草を吸うとき窓を開けるなどーを敏感に観察して描くのを「リアルさ」と見なすが、『海』はそうしたやり方をとらず、類型的ともいえる背景描写ー石膏像のある美術室、尾道風の坂の上にある家などーに徹する。これは一見「リアルさ」から遠ざかると見えて、ちょうどシンプルなボードの上でのチェスの駒の複雑なやりとりと同じで、<関係性>の描写にはかえって効果的だ。(……)だがせっかく積み上げた微妙な<関係性>は後半部で突然色褪せてしまう。筋の通ったクールさを持つ里伽子は「カワイイ子」になり、緊張した友人関係は「仲良し共同体」へと弛緩する。


 少女漫画的な<関係性>、と男性の欲望に忠実な「仲良し共同体」という二つの極。
 こういった極が引き起こす齟齬や反発は、男性が主体となっているだろう萌えアニメに少女漫画的な<関係性>を持ち込めばいかにねじれてしまうかという(よくみる)論点にも繋がりますし、この<関係性のリアルさ>を評価し「仲良し共同体」への弛緩を批判するなんて宇野常寛さんのゼロ年代批評の一部分と重なるようでもあります。

 まぁ、同じような事を手を変え品を変え語っているという事なのかも。



 色々と紹介してきましたが、映像の視聴に答えなんて無いと思うのですね。
 好きなように見て楽しめばいいのだし、あなたの解釈があればあなたにとってそれが最高なのは疑いようがありません。
 とはいえ、色々なフレームを持っていた方が楽しくアニメを見れるだろうとも、私は信じています。

 という事で、もうすぐ『海がきこえる』はじまります!
⇒ 続きを読む

 サマーウォーズの監督・作画監督コンビである細田守×青山浩行の対談を読んでいて、目から鱗が何枚も落ちた。


細田 (……)以前、僕が東映で先輩演出家の人たちに教わったことといえば、とくに幾原邦彦さんからですが、演出の付け方には二種類あると。ひとつは、「表現派」、もうひとつは「芝居派」だと。芝居派というのは、キャラクターの演技や感情表現を、アニメーターの動きや表情に頼って演出することです。それに対して表現派は、アニメーターの芝居に頼らず、なるべく絵コンテの表現で作品のおもしろさを保証するという演出のことです。主に、東映では、芝居派の演出をすると失敗すると言われていて、なるべく作画の力を当てにしないで演出をしろと教わりました。
「『サマーウォーズ』のキャラクターの演技はいかにしてできたか? 細田守×青山浩行 対談」『PLUS MADHOUSE 3 細田 守』p.141


■環境制約が二つのスタイルを産んだ


 この「表現派」と「芝居派」という区別は見事に日本の商業アニメーションの表現スタイルを分割している。
 一言でいえば、作画主導=「芝居派」、演出家主導=「表現派」となる。

 この引用のあとにある、東映動画内では芝居派の演出家は評価されなかったという発言が面白い。東映動画ではテレビシリーズでは厳しい枚数制限がある、また上手いアニメーターは映画を担当しテレビシリーズには回ってこない。テレビの演出家の元には相対的に下手なアニメーターしか残っていないのだから、芝居=アニメーターの力に頼る演出家は二流という事になる。「幾原(邦彦)さん自信、『美少女戦士セーラームーン』を、毎週3000枚どころか、2000枚でもおもしろく魅せていた。」と同対談で細田守は語っている。日本の商業アニメに横たわる環境制約が、作品内容だけではなく、アニメーターとしての評価をも決めている。

 自身の東映アニメーション時代を振り返り「基本的には作画監督の山下(高明)さんの持つ強烈なレイアウト力だけが武器」との発言も残している。絵コンテだけで面白いものを作る必要がある。そういった環境制約の中で、同ポという手抜き技を演出の力で魅力的なシーンに仕立て上げるという細田演出が生まれてきたのだと考えられる。影無し作画も同様に省力化の技法だ。



■演出のスタイルと作品内容の関係について


 次に、細田守はアニメーションにおける本質的な問いを投げかける。


僕は、表現派では豊かな作品にはなりづらいと思っています。社会をシニカルに眺めたり、暗部を描くためには、表現派はスマートな手法なわけ。でも、カメラが芝居しすぎて、演出の意図がうざいと思われる。それって映画の楽しみじゃなくて、巧い動きをテクニック的に楽しんでいるのと変わらない。テクニック偏重と同じ意味になっちゃうんですね。明るい題材には、必ずしも適した手法ではないんです、表現派というのは。(p.149)」

「これはアニメに限らず言えることだと思いますが、シリアスなものを作る方が簡単なんですよね。人間はこんなにダメだ、とか、世界は終わる、とかいうほうが表現しやすいわけ(p.148)」
同上

 コミカルで楽しい演技をするためには人間に対する肯定的な目線をアニメーターが持っている必要があるとしている。アニメーターがキャラクターに演技をさせるわけなので、アニメーター自身に世界の肯定感が無ければ楽しい演技は成立しない。また、アニメーターの演技を抑圧する「表現派」では、感情の表現は難しいという事だろう。

 もちろん、細田守は「表現派」と「芝居派」の向き不向きを話している。視聴者的感覚からしても、「表現派」の作品がつまらないとも思わない。題材によって、向き不向きがあるという話である。「表現派」の流行と、王道たるちょっとコミカルで楽しいアニメがぽっかり抜けている事に気がついて『サマーウォーズ』を仕掛けてきたわけだ。


■例>サマーウォーズと化物語


 『サマーウォーズ』は、生粋の「表現派」だった細田守が『時をかける少女』をきっかけに、宮崎駿の遺産たるテレコムアニメーション出身のアニメーターと出会い、そこで感じた「演技派」に対するカルチャーショックを活かした布陣で臨んだ作品という見方ができる。

 逆に、テレコム出身の青山浩行は細田さんの絵コンテで作業できることは幸せだというような発言も残している。「芝居派」と「表現派」を融合させるべく作品作りが志された事がわかる。

 で、この「芝居派」と「表現派」の対比は、すごく汎用的だ。現代の深夜アニメ界の人気を二分する、シャフトと京アニの基本的スタンスとも重なるように見える。

 『化物語』を放映中のシャフトは、まさに「表現派」の代表選手である。デジタルアニメの利点をフルに生かして省力化かつ、魅力的な画面を構成することに徹している。読ませる気のない旧かなつかいのタイポグラフィの連打、極端な画面の色合い、実写との融合、3DCGの多用などなど。

 先に引用した「芝居派」への評価はまるで『絶望先生』や『化物語』を評しているようにも聞こえてくる。

 作品の内容以上に演出家のテクニックを見ているという指摘。『絶望先生』と『化物語』の間には強烈なデジャブ感がある(そもそも、近年のシャフト作品は独特の演出方法を常に進化させ続けており、連続性がある)。
 例えば、旧かなつかいの羅列。これは、昭和趣味といおうか独特のレトロな感じが表現されているし、字体とそのレイアウトは美しい。だが、大正風味が作品に漂う『絶望先生』ならまだしも、現代を舞台にした『化物語』の世界でそれが展開されるのには違和感がある。ここでは、作品を見せる為の演出ではなく、演出を魅せるための作品という転倒があるように見られる。「それって映画の楽しみじゃなくて、巧い動きをテクニック的に楽しんでいるのと変わらない。」という状態になっていないだろうか。

 アニメ『化物語』は面白いんだけれども、同時に西尾維新の原作が持っていた独特の味わいをばっさりと切り落としているようにも見える。

 例えば、アニメ版の『化物語』の風景はいびつだ。PCの世界で作られた人工風景である事を自己主張している。細田守のデジタル世界描写があるが、あの世界観で日常の風景を描いているような印象を受ける。


2009-09-13-1-12009-09-13-2-1
上二枚は、化物語 #5より

 西尾維新の会話をアニメ上で見ていて、こういった戯れの言葉を紡ぎ出す才能は半端ない事を再確認した。おはなしの転がし方だったり、こういった足腰の強さといおうか翻訳しても消えない「面白さ」は確かにある。だけれども、読後感は全く違う。もっとも、違うからこそ、アニメで『化物語』を楽しんだ後に、小説を読む楽しみがあるといえるのかもしれない。



追記:06:00
ちなみに、八九寺編のオープニングディレクターの板垣伸はテレコム・アニメーション出身。自身がこのオープニングについて語っている。動かす事の気持ちよさが映像に満ちていて、化物語の他のオープニングと比べてもベクトルが違う。

丁度良い比較かと思うので、youtubeのOPを下に引用。

追記:09.14
強調を追加。引用部分強調も含む。
見出しも追加。
youtube動画を追加。
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この前このブログでも紹介した「ぼくらは少年演出家」とかを見ていると、ちゃんとアニメ見ないとなあと痛感したので、ちゃんと見る。

kanon 第5話 魔物たちの小夜曲~serenade
監督:石原立也
総作画監督:池田和美
脚本:志茂文彦
絵コンテ・演出:山本寛
作画監督:高橋博行

山本寛の復帰監督作が噂されている昨今という事もあって、久しぶりにkanonの山本寛演出回を見返してみた。

■川澄舞のみつめる先

第5話では、名雪の忘れ物を取りに夜中、学校にしのびこんだ祐一が、「魔物」を狩る謎の少女、川澄舞に出会う所から始まる。翌日、舞と学校で再会する祐一。そして、あゆや真琴との掛け合いがあって、夜中、舞の様子が気になってコンビニおにぎりを持って、夜の学校へと向かう。

舞は人気のいない学校の廊下にぽつんと立って、窓の外をずっと眺めている。

祐一は、第5話の中で3回、舞と出会う。
忘れ物を取りに来て、夜中、偶然に出会う時、翌日学校で再会する時、その夜、差し入れをもって舞の所を訪ねる時の3回だ。この3回は同じような構図で描かれているが、よく見るとカメラの位置が全然違う。

Kanon 5 1-2
初めての出会い

Kanon 5 2-2
翌日学校で再会

Kanon 5 3-2
差し入れをもって訪ねる

 

⇒ 続きを読む
「ぼくらは少年演出家」というブログをまとめ読みする。
平川哲生さんというアニメーターで、参加作品などはこちらにまとめられていた

アニメーターをやりながら語りも面白い。というよりは、アニメーターだから語れる面白さがある。マンガ夜話の石川&夏目コンビでは無いが、創作の現場にいるからこそ生まれる視点があるのかもしれない。


⇒ 続きを読む
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