タイトルに深い意味は無いです。前エントリを書いている流れで書いたんだけど、はみ出た部分をまとめてみました。
セカイ系を語る、といってもそんなに親しんでいるわけではないけど、その生理はわかるような気がする。自分=世界である。例えば、他者というノイズはそのイコールを脅かすけど、ノイズは極力排除しようと思えばできる環境が同時にある。ボランティアをすれば世界が変わると思っているような人がいるけれども彼らの中では、自分=世界が結びついている。
世界を爆発によって変えるのではなく、認識するフィルタを取り替えることによって変えてしまう試みとでもいえるだろうか。これは、現実の「超越性」を「非日常」が担保できなくなったということに対する一つの答えなのかもしれない。世界の超越性は、まさに自分の内側にのみ存在している。
いわゆる萌えも同一の地平にのっているといえなくもない。村上隆の展覧会の図録『リトルボーイ』の岡田×森川対談、『嫌オタク流』対談などを参照点として語る。岡田のいう『オタク・イズ・デッド』と、『嫌オタク』とは何かである。
『嫌オタク』に関していえば、オタクのみを評論しているわけではなくて、タコツボ化していく文化に対する苛立ちやつまらなさ、要するにどのジャンルを見渡しても縮小再生産しか起こっていないという現状に対する苛立ちを、わかりやすい(多分、その上本にしやすい)萌え産業をターゲットに、その縮小再生産を認証するオタクをターゲットに非難した本である。オタクが嫌いだというよりは、そういう文化的な状況が嫌いだとパンクスが吼えているという本である。
一方オタク・イズ・デッドである。何が死んだのか。
一言でいえば、商業主義の果てに「あえて」のレイヤー無きユーザーが戯れる表象が残されたのではないか。こういうと東浩紀的ですが。
貴族としてのオタクとは当然、「あえて」のレイヤーを持っていなければならない。しかし、産業としてのオタクは「あえて」という枠を取り払わなければならない。
偏差値が高いと商売にならないと、訴えたメディアファクトリー時代の角川の社長が言っていたというエピソードが紹介されていたけれども、その帰結として、消費者としての飼い慣らされたマスが残っている。この状況をおそらくは岡田は、オタク・イズ・デッドと呼んだのだろう。
しかし、セカイ系にも萌えにもそういった動物的な状況があってはじめて花開いたともいえる。先のメディアファクトリーの戦略の大成功とでもいえばいいのだろうか。したがって、同じ現象を肯定低的に捉えたのが、萌えやセカイ系といったニュアンスであって、否定的にとなえるとオタクイズデッドになるのではなかろうか。