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 前のエントリではサクラ大戦のカフェ閉店イベントのレポートを書いたので、参加しながら感じた事をまとめてみる。

 マンガ版のサクラ大戦を本棚から取り出して読んでみる。すると、歌謡ショウのネタがちりばめられているのに驚く。
 歌謡ショウというのは、サクラ大戦の主要キャストでやる演劇のことだ。平時は歌劇団として活動し、敵が攻めてくると華撃団として敵を撃破するというサクラ大戦の設定をリアルワールドで展開したものだ。サクラ大戦が一定数売れるとこの歌謡ショウ開催を許可されていたという噂もあるから、元々こういった劇場への展開をも視野にいれた設定だったのかもしれない。

 声優さんがコスプレをしてキャラクターになりきって演じるという企画である。最初は違和感があるのは確かである。声優さん本人がキャラと声優の身長差をネタにしたり、「花組の一部分を取ったら化組」と大喜利コーナーでネタにしたりするくらいである。歌謡ショウ自体の評価をするのが目的ではないのだが、とはいえハマればそれが見たくなるという不思議な魅力があるとだけ。

 で、この歌謡ショウ企画が何年も続く中で生まれた、ダンディー団や中嶋親方、掃除人の広井王子(という設定で前説をする)といったキャラクターがマンガ版では登場する。顔がまた本人に似ている。あの良い声で踊っているのだろうかとにやりとさせられる。もちろん、本筋はかっちりと進んで行くので予備知識が必要となることはない。とはいえ、歌謡ショウを見た事がある人なら思わず膝を打つ事間違いないしかけである。
#カンナ初登場シーンには、「海賊王にでもなればいいのに」といったような中の人ネタが登場したりもする。(カンナ=田中真弓=ルフィ)

 こういった連続性といおうか、ファンがファンでいるための仕組みという点ではサクラ大戦はかなり大それたことをやってのけたのではないか。歌謡ショウや太正浪漫堂はその中核を担っていただろう。

 コミケなどの同人誌即売会が、同人流通(?)が発達した今でも廃れないのは、同人誌を買うのに最も適したスタイルだというのもあるとは思うが(たとえば自分の好きなジャンルをくまなく巡って好きなものをみつけるなど)、参加する事に価値があるというイベント性もあるだろう。たまに参加する同人誌即売会で開幕前に並んでいる時、ここには同人誌を買う人以外はいないのだという奇妙な高揚感に包まれる。

 こういったイベントは、チウェのいう所の共通知識を生み出す場所になっている。共通知識については、『儀式は何の役に立つか』という本で考察されていた概念で、濱野智史さんがこうまとめている。
それは一言でいえば、ある社会的集団において、「誰もがその情報を知っている、ということを誰もが知っている、ということを誰もが……(以下無限に続く)」という状態のことで、要するにある種のメタ知識(知識に関する知識)のことです。
第22回【同期性考察編(3)】なぜニコニコ動画の「時報」は強力なのか。それは「共通知識」を生むからである。


 広井王子風な「共犯」という言葉も関わってくるかもしれない。歌謡ショウに参加していれば皆が知っているだろうキャラクターを前提として、マンガに忍び込ませるといったような共犯関係を確認するための「共通知識」なのである。乗り遅れた人の為にはDVDラインナップがそろっている。

 マリア役の高乃麗さんが太正浪漫堂で行ったライブを見ていて驚いたことがある。
 麗さんは会場を練り歩きながら、持ち歌を歌う。キャラクターソングのような歌だろうか。ゲキテイや御旗のように有名な楽曲ではない。しかし、歌の途中ですっとマイクを客の一人に向ける。すると、客は麗さんを継いで歌を歌いだす。そうやって、何人もにマイクを向けて最後は本人が歌って占めたのである。

 これは、すごく覚悟のいる演出ではなかろうか。仮に、マイクを向けて客が歌を歌えなかったら間が空いてしまう。私のキャラクターソングはここに来ている人は歌えて当然であるという期待の元に、ファンにマイクを向ける。事前に仕込んだサクラでも無い限り、冷や汗ものだろう。そして、ファンがそれに見事に応えている。決して、メジャーともいえない曲を空で歌い合える「仲間」がそこにはいる。

 ある種のコミュニティを支える共通知識を流布する場所として、歌謡ショウや太正浪漫堂は機能してきたといえるだろう。同じようにコミケや、変質が叫ばれているが秋葉原などの街も挙げられるかもしれない。もちろん、そういった事柄はマンガ・ゲーム・アニメといったような領域には限らないだろう。効果的なイベントを行う事で、商品や行動への訴求力を高めるなんてありきたりな使い古された手法なのかもしれない。

 けれど、ゲームという移り変わりの激しい領域で10年の長きに渡ってこれを維持して来たことは凄まじい。箱を用意したセガ側も、それを維持して来た客の思いも、だ。

 もちろんこういった煮詰まりが、新しい続編を受け入れにくくする土壌を作ったり、新しい顧客が引いてしまうような濃さを生んでしまった可能性もある。その場の維持のコストと得られるリターンを、大ゲーム会社のセガとしては天秤に載せないわけにもいかないだろう。諸刃の刃であるが、こういった濃密さを犠牲にするのもどうかと思うし、それに時計の針は元に戻らない。

 ここまででは、イベントよりにサクラ大戦を語ってみた感じになるのだろうか。とはいえ、ゲーム単体としてもあのゲーム感覚は特筆すべき面白さで、そこでのゲーム体験がコアにある事はいうまでもない。LIPSによって、反応するキャラクターの愛らしさ。キャラクターのツボのつき方。王道、ベタな展開のストーリー。数多くのゲームやアニメ、小説に埋もれない「サクラ大戦」という個性がそこにはある。

 このゲームの体験をコアにしてそれを育む場所が用意されていたという事は幸運なことだろう(見方を変えたら不幸なのかもしれないけど)。サクラ大戦1、2→3の間にはゲーム体験の上でも大きな進化があるが、それ以上にキャスティングも舞台対応ともいえる進化をとげているように見える。キャラクターの身長と声優の身長を合わせ、キャラクターの個性と、声優の個性をオーバーラップさせる手つきの洗練。1、2での開発経験がゲームの商品向上に繋がり、舞台での経験が舞台の向上に繋がる。単純な移植という以上のメディアミックスの形があるように見える。

 これだけの消費社会で次から次にゲームが生まれ、アニメが生まれ、マンガが生まれている。キャラクターは大量生産され、大量消費され、大量に忘れられて行く(キャラクターにとって本当の意味での死)。年間数百本のテレビアニメ、それ以上のマンガ作品が溢れている。テレビドラマしかり映画しかり。過去の作品にも簡単にアクセス可能であるから、膨大な量の物語とキャラクターが死蔵している。

 その中で、たとえ好きな作品に出会っても、心の底から愛したいと思うキャラクターに出会っても、流されない「場」がなければその気持ちを維持する事は難しい。

 サクラ大戦にはそれがあったのだ。

 この10年で完全にピリオドが打たれたわけではない。「夢のつづき」はどうなるのだろうか。

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カテゴリ:評論
タグ: ゲーム サクラ大戦
次のエントリ;fateの桜ルートをやりながらメモ
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