この第十一幕から最終回の第十三幕までは、ナギと仁を中心に物語が進む。
ナギと仁が喧嘩をする。
問題の種となるのは、『ナギ』とは何者なのかということだ。
ナギは悩み、仁はそんなナギを受け入れようとする。
第十一幕では、「オオヌサ」を象徴的に使っている。
オオヌサはボロボロになってしまっている。パワーアップしたいというナギだが、余計な出費をしたくない仁は軽く拒否する。しかし、仁はそのボロボロになったオオヌサに、今までナギと過ごして来た時間を思い出す。仁は、ナギが風呂に入っている間に、オオヌサを修理する(おそらく半紙を張り替えたり、汚れた箇所を拭き取ったり……)。

ナギは風呂上がりに修理されたオオヌサを見つける。そして、ナギは皿を洗っている仁の所に行く。「三千円くらいまでなら」と譲歩する仁を遮って、「これでいい」と言うナギ。そして、「明日からこれでばりばり祓う!仁も頼むぞ!」と言うのだが、その表情はなんともいえず、嬉しそうである。

しかし、その翌日に二人は衝突してしまう。仁は、「ナギ」とは何者か、という地雷を踏んでしまう。ナギは一人学校の屋上で思い悩む。そして、雨の中、ナギは二人の絆であるオオヌサを置いて独り立ち去る。

オオヌサを巡る絆の確認のエピソード、はアニメオリジナルである(まんが版は自転車置き場に落下する仁から始まる)。二人の絆の再確認、そしていつもの喧嘩とは違う不吉さを表すのにオオヌサは効果的に使われていた。
けれど、25分足らずの物語の冒頭に仁とナギが絆を再確認するシーンを描き、視聴者にその記憶が新しい中で二人が喧嘩、しかも決定低的な喧嘩をしてしまうエピソードを入れるのはちょっと無理がある。視聴者の感情の流れがつい逆流してしまうのだ。結果として、ナギと喧嘩をするシークエンスが少し急すぎる印象を持ったし、その展開に感情移入がしずらくなっている。
#二人の「喧嘩」の直前に美少女ゲーム風イラストをバックに貴子が「スクールデイズ」とかいったりする。こ
れも感情の流れがストップしてしまうので、個人的にはちょっと疑問だった。

さて、本題である、仁とナギの喧嘩のシーンである。
喧嘩のシーンでは、アニメ版と原作版との間で少しセリフが異なっている。この小さな変更点が、喧嘩の意図を大きく変えてしまっている。結論を先にいえば、原作ではナギが問題の中心にいるのに対して、アニメでは仁が問題の中心にいる。
端的にいえば、原作版ではナギが怒るのに対して、アニメ版では仁が怒るのである。
具体的にシーンを書き写してみよう。
まずは共有部分。
ホモ疑惑や怪我をしてしまったことに対して、仁が軽く怒っている。そして、このままだと身体が持たないからと、曖昧な部分をナギに問いつめる。
「そもそも、何がしたくて俺のうちにいるんだよ?」→ケガレを祓うため。
ケガレってなんなんだよ?→よくわからない「さあ、じゃねえって。わかんねえわけねえだろ。いつのまにかでてきた?」
「さあ?」
「いつからきたのかもわかんないのか?」
「よくわからん」
「俺にはお前が隠し事しているように見えるんだがな…。じゃあ、これだけ聞かしてくれよ。なんで蟲の形してるんだ?今日は蛾だったよな?」
「わからん」
「そうかよ。ええっと、ケガレがでるとどうまずいんだって?」
「つかれると悪い事がおこるの。妾がふれるとけがれてしまうし」
「つまりお前はなんだかよくわからんけどいるケガレを、悪い事が起こりそうだから退治してまわってるんだな」
「………」
「なんだ、そりゃ!昨日のアニメとかわんねえじゃねえか。自分がどうしてそんなことしてんのか考えた事ないのかよ。」
「うるさい!なんじゃそちは!詮索するなといったであろうか!もう忘れたのか、鳥頭!」
こうやって、ナギがキレる所までは、大体において原作もアニメも同様である。
【原作】
(また怒った!こういう話をするといつもこうだ!)
「お前な、いつもそうやってはぐらかして…」ナギの泣きそうな顔。
「仁の馬鹿っ うるさいんじゃ いつもいつも 嫌いじゃっ 嫌いっ 大っ嫌いじゃ!」(ぽかんと聞く仁)
ナギ、立ち去る。
【アニメ】
(また怒った!こういう話をするといつもこうだ!)
「いつも、そうやってはぐらかそうとするけど、今日は誤摩化されないぞ!実害くらってるのは俺なんだからな!」(びくっとするナギ。)
「理由くらい教えろよ!。わかんねえなら考えろよ!」
言ってからはっとする仁。
ナギの泣きそうな顔。
無言で見つめ合った後に、立ち去るナギ。
ナギ、つぐみとすれ違う。
仁が問いつめるまでは同じなのだが、原作ではナギが逆キレして、アニメ版では仁がそのままキレているのがわかる。ここでは、喧嘩の攻が反転している。
アニメ版の仁は最後までいいきってしまう。その後に、ナギの顔に気付く。そしてナギは仁に何も言わず、ただ去るのみである。一方、原作版の仁はナギの悲しそうな顔を見て、最後まで言い切る事が出来ない。そしてナギは仁に、捨て台詞を残す。
何故、こういった変更が加えられたのか。
おそらくは、仁の行動に理由を与える為だ。「自分の言葉でナギを悲しそうな顔にさせてしまった。」「自分の行動がナギを追いつめてしまった」という状況を与えて、仁がその状況を克服しようと様々なアクションを起こして行く(ナギ起源の調査→様々な助け→ナギへの強い言葉)。
アニメ版では、ナギが「わからないことさえわからなかった」事に気付く時に、仁の「わかんねえなら考えろよ!」という言葉がナギの回想として挿入されているが、これも仁がナギを追いつめたというシチュエーションを強調するためだろう。
しかし、原作では、一方的に女の子が怒って、関係性が壊れ、男の子がそれを必至になって取り戻すという話である。
最初は、いつもの会話なのだが仁は、自分が気がつかない間にナギの「地雷」を踏んでしまう。そして、一旦の破滅が二人に訪れる。ここでは仁はきっかけを作ってはいるが、悪いのは一方的にナギである。触れられたくない事に触れられたナギは、軽くヒステリーを起こしてその場を立ち去る。仁は怒りに怒りで応えるというよりは、ぽかんとした表情をしている。
この喧嘩のシーンは、アニメ版では男性原理(ラブコメ的)、原作では女性原理(少女マンガ的)で作られている。ラブコメ的とは仁を主人公とする立場、少女マンガ的とはナギを主人公とする立場ともいえるだろう。ジェンダーの違い。
展開すれば、
アニメ版で、悪いのは仁である。しかし、仁はナギが大切な存在だと気がつき、仁は自分の責任を取る為に、ナギを求める。原作で、悪いのはナギである。ナギは独り傷ついていていたが、仁はナギが大事だという事に気がつき、ただナギを許して包容する。
という立場の違いである。
仁が一方的にキレられているにも関わらず、仁の内在的な動機が無いにも関わらず、ナギの為に行動するからこそ、仁の行動はファンタジーになり得るのである。
と、同時にラブコメ的な終止感を生むには弱い。主人公が仁なのだとしたら、今回の変更点は当然の結論かもしれない。しかし、このシーンはナギを主人公として描くべきだったのではないか、と私は思う。それが『かんなぎ』だから、としか言えないけれども。
ここに限らず、それこそ第一話の仁がナギの身体を意識してエロ本を隠す所から、男かんなぎである事は強調されていた。ただ、大事な所なだけに、目立ってしまったという所だろうか。ただ、原作ファンでアニメ版が駄目だという人の何割かはこの男かんなぎ感が駄目なのかもしれないと、ふと思ったり。
■以下、落穂拾。
・冒頭の劇中劇で、スプー対ロリ。良いパロディ。
・仁との喧嘩で、本当にナギが知らないのか、とぼけているだけなのかは今後の展開をあわせると大事なポイントなのかも。
・画面にノイズが入ったり巻き戻ったりという演出は、ナギの不安感、壊れてしまうような感覚があって、ゾッとさせられた。
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