カラオケ回だけで、一話。
そういう思い切りの良さが、山本寛っぽい。
『涼宮ハルヒの憂鬱』にはまったきっかけ、山本寛という人を意識せざるを得なかったきっかけが、放送1話「朝比奈ミクルの冒険」だった。ここでは、最初から最後までハルヒ達が文化祭用に撮った学生映画が流れる。その学生映画を再現する為に、逆光・手ぶれ・矛盾のある演出まで、考えられる技巧が凝らしてある。そして、大事なのは「朝比奈ミクルの冒険」がDVDの特典映像ではなくて、放送の1話目で流れたという事だ。私を含めて、初めてテレビアニメでハルヒを知った人の驚きやいかん。これは劇中劇なのだと途中で気がついた時の感激やいかん。なのである。
こういう視聴者への挑戦とも信頼とも取れるシリーズの構成をしてくるあたりに同じ匂いを感じる。
アニメオリジナル回だと誤解している人も多いのだが、原作にあるカラオケ回を膨らませたもの(3巻に収録)。
まんがでカラオケを歌うという回を描く武梨えりも武梨えりだが、それを受けて、神前暁に作・編曲して歌わせる山本寛も山本寛だ。
ざんげちゃんはアニメオリジナル楽曲であるが、それ以外の楽曲は、原作ではサビだけ歌っている曲にそれらしく作曲をして、前後の部分も補完したものである。それぞれの曲の作詞は武梨えりとはなっていないが、曲の方向性/コンセプターはいうまでもなく武梨えりのものである。
余談だが、作詞/作曲 武梨えりである所の『ハロー大豆』がプチブーム中。こんな動画なぞ。
さて、今回はアニメ版かんなぎの収穫ともいえるエピソードだった。
カラオケの隣に座って欲しくて微妙な仕草をする「つぐみ」、ざんげと目線でやりとりをしてちょっと怒る。それだけで可愛いのだ。
カットをテンポよく積み重ねる事で、説明過剰にならずさらっと状況を表現している。
以下に見てみよう。

座るつぐみ

座るざんげ

どちらに座ろうか迷う仁。仁とつぐみが一斉に仁を見る。
つぐみが仁の座るスペースを空ける。
仁が自然とそこに座ろうとする。
ざんげが「仁くん、この歌手の名前なんてよむんですか?」としれっと。
まんまとざんげの方に向き直る仁。

ざんげの横に座る仁。

一人座っているつぐみ。落胆中。

仁と喋りながら、つぐみに目線を送るざんげ

その意味に最初はわからずぽかんとしているつぐみ。

やがて、その意味がわかってちょっとむっとした表情をするつぐみ。
以上で、省略したカットも含めて約35秒で、12カットである。しかも、その一つ一つのカットについて、キャラクターの感情が込められている。
ただ、座るだけのシーンである。いくらでも楽をしようと思えばできるはずだ。だが、カットの積み重ね、キャラクターの仕草で状況を表現しようとしている。
また、これだけの意味を引き出せるのも、今までの話数で巻いて来た「種」が生きているからだ。
ナギとの出会いがあり、たまごやきとおひたしがあり、メイド喫茶回(6回)があり、仁との関係性を受け入れるつぐみ(9回)がいる。だから、カラオケで座るシーンだけでも楽しめる。そういった「種」については、当ブログ記事、六幕:少女の恋心を描くという事、九幕:つぐみの決意と自信を参照のこと。
つぐみは自分が頑張って歌っても、目の前でざんげにいちゃつかれてしまう始末である。「そうだ、デュエットしようよ」と何回も言ってみるのだけど、その度にスルーされてしまう。こういう空回り感こそ、つぐみ。
ナギにしたって、秋葉がロリっキュを歌わないと知った時のちょとした失望感など可愛い。
それは、今まで描いて来た積み重ねが生きてきている。今までの話数で、種をまいて来たから、ちょっとした「仕草」に意味をよみとる事ができる。
そして、神前暁に劇中曲を作曲するという飛び道具。
つぐみ→下手な女の子ががんばって歌う。
大鉄→芸術の神に愛されている。
秋葉→普通のJPOPを歌おうとするが貴子にそそのかされ、誰も知らないアニソンを。
仁→とりたてていうほどのない下手さ。
ナギ→大豆のうた。
貴子→上手いけどキモイ。反動アニソン。
ざんげ→アイドル、だけど下手。下手だけど可愛い。
歌っている最中の目線や、ざんげとつぐみの間で交わされるバトルなどなど、すごく楽しい回だった。

今回の「マイク貴子」の演出で物議を呼んだのが、「らき☆すた」のパロディに関してだろう。いうまでもなく、らき☆すたの前期のエンディングは、週代わりでこなた達がなつかしのアニソンをカラオケで歌うというものだ。そこに映し出されるのは、カラオケの扉一枚である。
ただ、これには否定的な意見も多かった。 山本寛の個人的な怨恨を作品で云々と見ては冥府魔道に堕ちる。その視点だと、アニメでもまんがでも『かんなぎ』を好きな人がみたら、いらいらする。
私自身は、pixivで見た、つかさが間違ってナギ達のカラオケルームに入ってしまうという誰かが描いたイラストを見て、こういういざこざは吹き飛んでしまった。逆の視点から見る事で、やっちゃった〜というつかさの表情を見て、吹き飛んだ。
もしも「協力:京都アニメーション」で出来れば、文句無しに悪くないパロディだっただろう。
この件は、パロディというものの難しさを表している。その文脈を読み取るのは視聴者に投げられてしまっているのだ。バトルロワイヤル状況下(ゼロ年代の想像力)でのパロディが抱える問題とでもいおうか。
「小さな正義」が乱立している状況下で、解釈の自由度を高めてしまうと、いかようにでも紛糾してしまえる。ただでさえ、アニメのパロディというのは、受け手と作り手がネットを介して意識的・無意識的に繋がっているのだから(かんなぎでも、確か第四話でアフィリエイト的なブログが出て来たりしたし、第一巻のオーディオコメンタリでは、山本寛と武梨えりが「ハッテンマイケル」という空耳で盛り上がっていたりもする。)
そして、なによりも『かんなぎ』を巡っては様々なアンチが飛び回っていて、掲示板での議論なんかは見るに耐えない状況である事を忘れてはいけない。ナギに恋人がいるかいないか、監督の演出が嫌いだとかそういった「小さな正義」同士の闘いの最中に『かんなぎ』という作品も置かれてしまっている。
そういったすぐに小競り合いが起こる状況下で自律的な作品を構築するためには、描写の密度を濃くするという『かんなぎ』のスタイルでは有効なのかもしれない。もちろん、ノイズを排除して特定のニッチに偏った「上級者向け」の作品を作るのも一つだろう。けれど、『かんなぎ』はもっと多くの読者なり視聴者に開かれている作品だと思うのだが、どうか。
素直にパロディを楽しめない。思えば、遠くに来たもの、なのだけど。
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