ハルヒの二期(*)を楽しむために、強引な解釈をしてみようか。
ハルヒの一期は長門の見た「夢」だった。
長門の「現実」はこの4月から始まった。
長門がハルヒたちを待っていた「3年」の重さを私たちは知っている。
祭りの再開ではなく、長門が夢見た祭りを始めようじゃないか。
(以下、ネタバレ)
「笹の葉ラプソディ」とはこういう話である。
七夕の願い事を書こうと言う涼宮ハルヒ。その時、長門はキョンに一枚の短冊を渡す。そこには、謎の宇宙語が書いてある。
その後、みくるによって3年前の7月7日にキョンは連れてこられる。そこには、東中学に侵入しようとしている中学生のハルヒがいた。ナスカの地上絵風に謎の宇宙語を書かせられるキョン。3年後と同じ事をハルヒは考えていたわけだ。
やがて、ハルヒから解放される。そこで、みくるは「タイムマシン」を失っている事に気がつく。キョンは慌てず、3年前の長門に会いに行く。色々あって、促されるままに長門のマンションの一室にひかれた布団に寝る。一瞬、暗転。2人は3年後に戻っている。
長門曰く、緊急事態につき二人の部屋だけ、3年間時間を止めたそうだ。キョンとみくるにとっては一瞬だが、長門は「待機モード」で3年近くをそのマンションで過ごしてきたことになる。
冒頭で渡された長門の短冊の意味をきくキョン。「私は、ここにいる」と、長門は答える。
(アニメを見ながら作成)
私たちの時間における3年前の七夕を思いだそう。まさに、今日放映されたSOS団の七夕ミーティングが公式サイトに掲載されるという「遊び」がされていた。
私たちの時間軸における2年前の七夕、ではアニメの二期の決定が伝えられた。
私たちの時間軸における1年前の七夕、では中学時代のハルヒとキョンの会話が撮れている監視カメラの映像が公開された。3年前の七夕、当時は、第一期が終了した直後だった。ファンとして、当然気になるのは二期のゆくえである。公式サイトにあからさまな更新があったことで、角川や京アニ側からの「消失」=二期をやるという意志表示を受け取ることになる。
そう。私たちは、3年の間「二期」を待ち続けたのだ。それは、長門が隣の部屋で眠るキョンとみくるを眺めながら過ごした3年間と同義だ。
新アニメーションが何故、時系列順でなければならなかったのか?それは、長門を神の視点としたシリーズ構成がなされているからなのである。
キョンとみくるが迷いこんだ時代の長門は3年後の自らと情報連結をする。劇中では、3年前の長門と3年後の長門が情報の同期をとり、その瞬間に長門は眼鏡を外す。3年後の長門が眼鏡をしていないこと、おそらくはその事の顛末や感情の機微も含めて把握したわけだ。
この時に彼女がみたものは、我々が『涼宮ハルヒの憂鬱(一期)』として知っている映像とほとんど同じものだろう(長門視点の『憂鬱』ということになるだろうか)。長門にしてみれば、3年後の体験を3年前にしたことになる。
第一期の『憂鬱』をこのような長門の「夢」として捉えてみよう。
そうすれば、今回の新アニメーション版は、3年前の長門に3年の月日が流れた後の世界ということになる。時系列順放送の意味もここにある。単なる、「再放送」ではない。同じ映像かもしれないが、そこには長門が過ごしてきた3年という月日が刻み込まれているのだ。
同じ「歯車」を使っても、全然違う「機械」ができる。のだとすれば、同じ「歯車」でもそれが果たす役割は全然異なっているわけだ。
そう考えていけば、長門が過ごしてきた3年間を我々も共に過ごしたことになる。
ただ3年間をマンションの一室で過ごした長門の心境、3年という時間の重さが我々と長門の間には横たわっている。3年という時間の長さや重さを伝えるのに、実際の3年を使ったわけである。その時間が、どれだけ焦燥感を伴うものだったかは、これを見ている人なら知っているはずだ。
だからこそ、祭りの再開ではなく、長門が夢見た祭りを始めなければならない。
追記。
まあ、角川商法がどうだとか言いたくなる気持ちはわかる。
まあ、山本寛がいないのもファンとしてはつらい。
だけど、今日くらいはそういうことを言わないでおこうかと、思います。
アニメ版のハルヒは、ネットでのコミュニケーションなどメタレベル含めて作品世界の一部である。これは
以前に書いた「涼宮ハルヒの分析」の結論の一つ。(*)09.5.21に、再放送分に混合する形で「笹の葉ラプソディ」が放送された(GIGAZINEのレポート→
■)。
【09.5.22】文意を変えない形で、構成や表現をバージョンアップさせました。
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