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勝間和代さんがキャスターを務めるBSジャパンのデキビジ

 7月31日放送のゲストは、田原総一朗・佐々木俊尚・東浩紀という面々。

 番組の収録がust/ニコ生で配信されており、それを見ながら走り書いたメモをテキストの形にしてみました。

 音源を再参照したわけではなく、かなり私の主観につよいまとめになっています。

例>勝間さんがバイクの話しかしていない→私がバイクの話に興味がある。後半の孫正義論のカット。項目分けの基準など。場合によっては発言者との対応が混在したりしている箇所があるかもしれません。総じて、正確なまとめではなくメモである事を、ご了承下さい。

 本放送は今晩という事で比較してみるのも面白いかもしれませんね。
■日本の現状
□分断
 学者・政府の信頼が低下している。学者の意見を信じられないから、自分でガイガーカウンターを持って観測をしてまわる。一方の、政府の側も「愚民」だとこき下ろす。(東)

□かつての処方箋の失効、民族性
 テレビメディアからネットメディアになれば、老人から若者に世代交代をすれば、なんとかなるのではないかという期待感があった。が、そういった期待感は無くなった。(東)

 Togetterで、恣意的にフレーミングをして、プチマスコミごっこをしたりしている。彼らは誰からそれを教えられたわけでもない。権威主義・パターナリズムと、批判をする事の快楽に酔ってしまう。
 ネットメディアもアーリーアダプターが騒いでいるうちは熟議ができるけれど、1000万人を超えるとどこもが2ちゃんねる化する。そうすると、FacebookやGoogle+に移民をする、という繰り返し。(佐)

□無駄・余裕の無くなり
 日本はハイコンテクストで閉じている。文化の蓄積には強みを発するが、危機や変化には弱い。かつてあった「無駄」が無くなってしまった。(東)

 「無駄」というのは「余裕」といいかえてもいい。働き蟻の2割が遊んでいるという話があるが、何故かといえば、それは新規開拓を行っている。鈴鹿8耐に行ってきたのだが、日本のバイクはつまらない。それは「無駄」が無いという事もあるだろう。(勝)
注:東さんの2011/7/26のツイートで、この「無駄」について語られていたので引用しておきます。(改行=1ツイート)

自分でも自覚してなかったのだが、大学は閉鎖的になり企業講演のふわふわしたシンポジウムはすっかりなくなり、日本ではこの数年、そういう抽象的な会話をする場がほとんどなくなっている。かわりに求められるのは、政治がどうとか若者の雇用がどうとか、えらく実用的な話。
ぼくもいつしかそれに慣れっ子になってしまっていたわけだけど、本当はそれってとてつもなく貧しいことではないのか。日本が文化的にもう余裕ゼロということではないのか。そんなことに気づいて、ちょっとショックを受けたわけです。ぼくがこの1週間ほど鬱なのは究極的にはそのせい。
ぼくは現代思想出身で、80年代文化を浴びるように受けて育って、ふわふわした軽薄な消費文化と抽象的な議論や作品が大好きなひとです。ゼロ年代のあいだ、そういうことがどんどんできなくなって、狭い狭い<実用性の空間>に押し込められるようで息苦しかった。だから批評家廃業とか言い出した。
それでもなんとか抵抗してきたつもりだったのだけど、LAでシンポジウムに登壇した瞬間、自分がすっかり<ゼロ年代化>していたというか、いつのまにか<実用的な話しかできない人間>になっていたことに気づき、愕然とし悲しくなったわけです。ああこれはまずい、ぼくはリハビリが必要だと。
昨日秋葉原でも話したけれど、ぼくたちの社会は、つい10年前、20年前までもっと自由だった。大学の先生も出版社の編集者も、もっと自由でいいかげんで、「こいつなんで給料もらってんの?w」みたいなひとがいっぱいいた。むろんそれは無駄だった。でもその無駄が文化を支えていた。
ぼくたちの社会はいつのまにか――とりわけ3.11以降――、そういう無駄を許せない体質になっている。それはだれが悪いという話でもない。端的にみな貧しくなり、マジメになり、切実になったということだと思う。だからいいのかもしれない。でもぼくはそこでは息苦しいのです。
ちなみに、これは別に、だからこそオタクやサブカル!という話でもありません。サブカルも日本社会の一部。個人的な印象では、ゼロ年代はサブカルもまた全体的にどんどん夢を失い、ふわふわしなくなっていたように思う。ぼくたちはおそらく、自分たちで自覚している以上に疲れているんですよ。





■日本人の民族性
□部分最適ーリーダシップ
 何故、日本にはビジョナリーが生まれないのか。iPodは何故日本から登場しなかったのか。(田)

 それは、部分最適してしまうからだろう。バイクの話をすると、パーツ毎を各々が作る。くみ上げると非常に重たいバイクになってしまう。組んでみて始めて気がつく。(勝)

 小泉首相は人の話を聞かない。話を聞くと、「何もできない」か「ノイローゼになる」からだ(田)

□可視化
 ネットによってユーザーの声が、可視化しすぎてしまっている。
 日本人は元からユーザーの声を聞こうとしていた。だが、それはテレビの現場においてはせいぜいが視聴率程度だった。 アニメ制作者は2ちゃんねるやブログなどの意見を意識して、下手をしたらシリーズ中に反映させてしまう事もある。意識的には気にしないと思っていても、どうしても気になってしまう。(東)

 テレビもクレームが無いのが良い番組、になってしまうし、ネットも炎上しないように自分の発言をセーブしようとしてしまう。記者クラブなどの制度の問題よりも、ある種の民族性なのではないか。

□コミュニケーションをすれば1つの結論に致るという幻想
 日本では、結論がでないという事にいらいらしてしまう人が多いように思う。 日本の会議は最初から落としどころを用意する。そうではなくて、議論をする事自体の有意義さをわからない。同じ議論をすれば、同じ結論に達するべきだと思っている人が多すぎる。

 一つの民族という幻想、日本語という言語が未だに強固にある。アメリカだったら色々な民族がいるということが前提になっていて、それが言論やコミュニケーションの前提となっている。

 サンデルが日本で受けたのも、彼はコミュニタリアンであって噛み砕いていうとよく話し合いましょうという立場だからだろう。それは、日本人には受ける。それに、政治哲学の議論というのは結論が出ないものだけど、彼は結論が出るんじゃないかと錯覚をさせてしまったのではないか。(東)

 ああいう講義のスタイルが斬新だった、政治哲学の議論を日本人が求めていたという理由もあるだろう。

■これから
□国語教育
 こういった国民性のようなものを変えるには論理的に文章を作るといった国語教育しかないと思うようになってきた。前提があって中間があって結論があるという(東)

□崩壊のきざし
 同一性幻想はかつては天皇の元では皆平等という形で保たれた。それ以降、経済的同一であるという事でも保たれた。それらはほころびつつある。例えば、震災後の対応でも所得があれば東京に避難をする事ができる。それらが所得によってくっきりと分断されているのが見える。(東)

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