戯言と作品レビューや分析のブログとその時の思いつき。

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 涼宮ハルヒの憂鬱のネット上での盛り上がりが持つ意味や効果は、口コミ的なマーケティングだけには限らない。「涼宮ハルヒ」という作品を解読する為の仕組みでもあったし、一人一人が特別なハルヒと特別な関係を結ぶ場所だったのではないか。

■解読のしくみ/作品を意味付ける場所としてのネット


 涼宮ハルヒという作品は、映像を見ているだけでも充分に楽しい。複雑な世界構造が互いに揺らぎあっている世界観も面白いし、朝比奈みくるが理不尽にメイド服を着せられるという所も素敵だ。他にも、めまぐるしく変わる演出も楽しいし、あの文化祭でのライブはそれだけで素晴らしい。

 しかし、一人で映像を見ているだけよりも、ネットというメディアを使った方がより楽しめる。
 体験の共有という事もあるし、一人では気付けなかった事に気がつける。

 ハードなクラシックを聴いて面白がるためにはそれを理解するための「教養」が必要だ。表面上のメロディだけを追って気持ち良くなるのも楽しいのだが、シンフォニー全体の中で些細な楽器の音色の変化や音楽全体の展開やフレーズの引用を追えるようになればさらに楽しい。そんな事を、ラジオが生まれた頃のドイツ人が書いているのを読んだことがある。

 アニメ版「ハルヒ」は、一人の人間の「教養」を超えてネタが仕込まれている作品である。
 まぁ、それも当然である。アニメーションが、個人的な創造物ではなくて、何人ものスタッフが関わる集団的構築物なのだから。しかも、京アニという筋金入りと評判のスタジオが本気で集めたスタッフに本気で仕事をさせたのだ。それぞれのスタッフが自分の抱えた濃いものをぶつけてくる。

 この十数人の濃さを一人で解読するのはほとんど不可能だけど、1つ1つには感応できる事もある。それをネットを通して、すぐに共有できる。ユーザーはそれに「面白さ」を感じる。この流れが楽しくて、ネタ探しにやっきになるという流れも起こるだろう。

 Web2.0(仮)という観点から見ても、口コミ的なマーケティングという指摘よりも、こちらの方がより重要な視点ではないだろうか。まさに集合知だ。京アニというとてつもない集団が送り出した塊を、ユーザーの塊がよってたかってデコード・意味付けをしたのだ。

 1人の人間が、作品に対峙しなければならなかった時代にはそれなりの「教養」を身につける事が必要だった。テレビを見るのは馬鹿で、小説を読む方が賢いといった言葉があった時代があった。しかし、人は楽な方に流れるので、「教養」よりも誰もが楽しめるテレビを見るようになった。

 1つのアウラを持ったものに時間という制約の元で劇場という空間で個人が対峙するのに対して、ある設定と世界観の元に集合的に作られたものを、好きなだけ時間をかけて集合的に解釈していくという対応を置く事はできないだろうか。
 思いつきレベルで、ちょっと、安直過ぎる図式だと思うんだけど、とりあえずのものとしてまとめてみる。

 ・作曲家が音楽理論に基づいて作曲をする。
 そして、オーケストラを指揮して教養に基づいて読みこむ。
 →わかる人とわからない人との乖離
  ラジオなどの大衆化メディアが登場した時の、
  大衆は音楽を理解しているのではなくてメロディを追っているだけだという嘆き/愚痴。
 ・「批評家」や「評論家」が読みといて、人々に流布しなければならない(古臭い知識人感?)。
 ・集合的に作られたものを、静的な構造の中にいれて、それを読み解く。
 →映画やアニメーションなどの登場
 ・集合的に作られたものを動的な構造の中にいれて、それを動的に読み解く。しかも、集合的に。
 →参加者が面白いと思うレベルにまで解釈を進める
  素材へのアクセスも、素材の解釈へのアクセスも、
  結果として得られるものもばらばら(動的)

 こういう楽しみ方こそ、大昔の劇場にも、ちょっと前のテレビにも無かった、ネットが普及した今だからこそ可能な事なのでは無いだろうか。今のWeb2.0(仮)と呼ばれる、ネット環境がそれを始めて可能にしたのかについては説がわかれるかもしれない。が、とりあえずはおいておく。

■「解釈」の面白さ


 ネット上のコミュニケーションで集合的に解釈される作品。その解釈の蓄積はブログやまとめサイトや2ちゃんねるなどの巨大掲示板によってされている。「解釈」を求めようとする人は、それぞれが持っている入り口からその蓄積にアクセスする。

 ここでいう「解釈」とは堅苦しいてつまらないものであってはいけない。誰に強制されるのでもなく、自発的に発生するものであるなこそ、その「解釈」という作業が面白くなければならない。
 では、その面白さの源泉とは何かを考えたときに、思い浮かぶのが、「トリビア的な面白さ」、と、「物語の理解が生むカタルシス」だ。
 
 「トリビアの泉」的な面白さとは、些細なウンチクの面白さである。役に立たない知識が面白いという事実がポピュラリティを持っている事は、唐沢俊一経由トリビアの泉で実証された。ハルヒの場合だと、「実際にコンパイル可能なソースコードが作品中で使われている。」へぇ~・「逆転裁判と瓜二つの構造がとられている。」へぇ~。という楽しさがある。

 また、「物語の理解が生むカタルシス」もある。Web上にある意味付け装置に従って、読みこめば読みこむほど作品の世界観が広がる。ネット上で為されたコミュニケーションの中には、物語の本質に関わるような事もある。例えば、「朝倉涼子の発見」「公式Webページ」「七夕の日が今年なのではないか」といったような気付きは物語的に別の意味を与える。

 「朝倉涼子」に関しては、朝倉と長門とキョンというサブキャラクター同士の関係性を浮かび上がらせる。俗に朝倉涼子青鬼説と呼ばれているものだが、ふらふら雑記帳さんがまとめてある。

 一方、「公式Webページ」や「七夕」に関しては、現実とフィクションの地平をまたぐ、見事なメディア・ギミックであり、表現だ。このサーバー上で表現された物語ともいえる、めまいについては次のエントリで詳しく書く。

 他にも、「作品」を「理解」するという面白さがあった。

■一人一人が交わした契り。


 関連して、1人1人の個人とハルヒの関係を作ったのもネットだったとはいえないだろうか。契りを交わすというとちょっと大げさだが。

 昔のバラエティが茶の間でのコミュニケーション込みでうきうきさせるものだったように(例えば、「ちびまるこちゃん」での描写などを見ているとそう感じる)、ネットでの盛り上がりも含めて、楽しんだのだろう。昔のテレビは家族とのコミュニケーションとセットだろうし、ドラマも学校や会社での会話の共有という側面があるだろう。

 さて、上のようなコミュニケーションを繰り返す事によって生まれる副作用がある。それは、作品の中にのめり込む事が可能になるという事だ。ハルヒという作品を自分だけの体験に血肉化していく事が可能になるといってもいいかもしれない。

 私自身を振りかえってみても、こうやって色々と分析をしてみたり、人の解釈を読んでみたりしてから、ハルヒを見返すとこれがまた新鮮なのだ。

 「解釈」をする事が物語の面白さに繋がっている。自分が解釈をすればするほど、ハルヒという作品が面白く見えてくる。それは、当然で自分が面白がれる要素だけをネットからピックアップしてきて、ハルヒという物語を勝手に補完しているのである。

 自分から主体的に(そういったアクションが環境に埋め込まれたものだとしても)何かを発信する事による感情移入の効果は無視できない。

 唐沢俊一がよく言っていた、B級論がある。ちょっと適切な参考文献が見当たらないので、記憶の中からまとめてしまう形になってしまうが、「くだらないものの方がいい。その方が自分の思い入れが入る。」といったようなものだ。岡田斗司夫あたりがよく言っていた「今、エヴァの続編をどんな監督がやっても無駄。一人一人の中にあるエヴァの方が面白いし、必要ならどこかで誰かがそういう同人誌を作っているし、無ければ自分でつくれば良い」。という指摘を置く事ができるかもしれない。

 ネットに書きこむなり、ネットを自分の興味に従って巡回する中で生まれた、自分だけの涼宮ハルヒ像。これを構築していく過程で、作品と自分との間に、一人一人が異なった関係性を構築していったのだろう。

 YouTube的なメディアと2ちゃんねるやBlogでのコミュニケーションといったWeb2.0(仮)的なものは、無いよりはあった方が便利だし、コミュニケーションの加速をもたらしたんだろう。

 これは、消費者/解釈者が、クリエイターとは等価だという極論がある。例えば、福田和也が「過去の小説さえあれば、批評はできる」という極論の延長として、捉えられるかもしれない。「解釈」も含めて作品なのだとしたら、「解釈」をしたユーザーは涼宮ハルヒという「舞台」に上がっているのだ。

■まとめ


 ハルヒとネットとの関係で、マーケティング的な効果というのはごく1部分で、物語の「解釈」がプールされたネットの中で、ユーザーが楽しんだという事実が重要なのではないか。ハルヒと戯れている事が、結果として広報活動になった。

 インターネットは「双方向」だという。けれど、ゲームブック程度の「双方向性」ではなくて、涼宮ハルヒの場合は、ユーザーが参加して、作品を解釈して、その面白さを意味付けていく装置ににまで発展していった。

 このエントリはメディアっぽい側からハルヒを見たときのものなのだが、一方、物語はカタルシスに向かって突き進んでいくわけで、ハルヒの憂鬱ついて次のエントリで書きたい。

続く。

■目次


涼宮ハルヒの分析Ⅰ
涼宮ハルヒの分析Ⅱ 京アニがボケてファンが突っ込む。舞台はWeb2.0(仮)
涼宮ハルヒの分析Ⅲ エンターテイメント/メタフィクション
涼宮ハルヒの分析Ⅳ 意味付け装置としてのネット
涼宮ハルヒの分析Ⅴ-1 京アニ演出の巧さ、世界の裂け目がもたらすめまいについて
涼宮ハルヒの分析Ⅴ-2 メディア・ギミック・イリュージョン テレビ版ハルヒとDVD版ハルヒの違いが持つ意味
涼宮ハルヒの分析Ⅵ-1 欲望投影システムとしてのハルヒ エヴァ・ビューティフルドリマーからの世界の肯定
涼宮ハルヒの分析Ⅵ-2 涼宮ハルヒの「憂鬱」について

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■関連エントリ
カテゴリ:評論
タグ: 涼宮ハルヒ 目次::涼宮ハルヒの分析
次のエントリ;げんしけんとNHKへようこそを比べてみる
前のエントリ;偉大なる親父を持ってしまった息子



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