戯言と作品レビューや分析のブログとその時の思いつき。

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 「涼宮ハルヒが世界を規定する。」これがこの物語の根底にある設定で、涼宮ハルヒの物語の面白さを支えている。

 まず、「涼宮ハルヒが世界を規定する。」という設定は、ハルヒを世界の媒体にする事で、SF的なものから萌え的なものから純文学的なものまでを、矛盾無く並列させる事ができる。「どうして、宇宙人と未来人と超能力者がこの世界にいるのだろうか?」という設定にリアリティを与える為に、普通の小説なら一章分程度のの活字を割く必要があるだろう。

 けれど、ここではハルヒの望んでいるものが世界を決定するという世界観設定によって、説明が済んでしまう。要するに、ハルヒが「宇宙人と未来人と超能力者がこの世界にいて欲しい」と願ったからそうなっているのだ。

 ハルヒの欲望が世界を決定する。これを、ハルヒの欲望とは読者や視聴者の欲望である。と、読み替える事も可能だろう。
 オトナアニメvol.1で、「宇宙人や未来人が何故いないのか」というハルヒの不満はSF者の共通認識だと、SF作家・山本弘は言っていた。読書家キャラとしての長門は文系青年が待ちに待っていたキャラクターだったという声もネットにあった。

 作者も自覚的で、いたる所にアニメへの自己言及もある。テレビ版だか小説版だかは忘れてしまったのだが、「お茶をキョンにぶっかけなさい。ドジっ娘というのはそういうものだから。出来ないのなら、私がやる」といってキョンと戯れるハルヒ。というくだりがあった。

 読者が望むものをハルヒを媒介させて、その上で、戯れさせてくれる。

 読者の欲望=ハルヒの欲望による物語。これを否定的に語ると、そんな閉鎖的な物語に戯れるなよ。という事になる。具体的なサイト名は忘れてしまったのだが、ハルヒとキョンの関係を批判しているサイトがあった。設定上、キョンには成功が約束されている。甘えるなという事だったように思う。

 また、大塚英志的な「成熟」問題なり、エヴァ映画版的、うる星やつらのビューティフルドリマー的な問題もある。マンガ・アニメ的な想像力と現実との関係という問題にも繋がる。



 『うる星やつら』テレビ版で、押井守はスタッフの個性を最大限を活かすように演出を行った、とどこかで読んだ記憶がある。宮崎駿が、全ての作画に手をいれるという伝説に象徴される作家主義的な部分が強いのに対して、アニメーター1人1人の個性を最大限に発揮させる演出をし、それをファンが支持をした。ここだけを見ると、アニメ版の涼宮ハルヒとテレビ版「うる星やつら」は似ているような気がする。

 しかし、映画版「ビューティフル・ドリマー」で「現実」と「虚構」の区別の提示によって、「現実に戻れ」テーゼをファンの目の前に突きつけた。私は同時代では受け取っていないのでよくはわからないが、そういった事だとされている。

 ハルヒはビューティフル・ドリマーと似ている作品構造を持っている。一人の少女の夢、を媒介してファンの欲望を作品世界に投影させた、という点において。しかし、ビューティフルドリマーにあるような皮肉や悲壮感のようなものは無い。

 ビューティフルドリマーにおける無邪鬼が作品のクライマックスに存在しているのに対して、涼宮ハルヒでは世界の真相それ自体は物語の枠組みの提示に過ぎない。うる星やつらでは、その世界の提示によって物語が終わってしまうのに対して、涼宮ハルヒではそこから物語が紡ぎ出されるスタート地点だ。

 ビューティフルドリマーやエヴァンゲリオンの映画版で想起されるような問題意識を踏まえて挑発的な回答ともいえるのが、「うる星やつら・ビューティフル・ドリマー」「エヴァンゲリオン・映画版」の2つの引用を入れこんだ、テレビ版第12話「ライブ・ア・ライブ」だ。

 ビューティフル・ドリマーの終わらない文化祭前夜であたる達が準備していた喫茶店の名前を引用し、「朝比奈ミクルの冒険」を見ている観客をエヴァの映画版から引っ張ってくる。これらは、不吉な引用にも思える。しかし、この引用は「世界」に対して否定的な印象を与えるのではなく、そんな事を踏まえてわたしたちは戯れてみるよという意志表示のようにも思える。俺達はハルヒのように、この「世界」と戯れたいんだという宣言。そんなこんなは全部踏まえて、この「世界」を強く肯定したいんだというメッセージを感じる。

 謎の第一話「朝比奈ミクルの冒険」の解決編ともいえる「ライブ・ア・ライブ」で、こういった肯定をする事はテレビ版を通じて祭りを繰り返してきた有像無像のファンに対する応援歌だった、というと言いすぎだろうか。
 その肯定が、闇歴史にしたくてもできない昔の作品に対して、苦笑を携えていたとしてもだ。ただ何もせずに、震えているよりもよっぽどましだ。

 先の山本弘のオトナアニメ内のコラムによれば、ハルヒのように小説世界自体への言及があるSFで、世界への諦念というテーマが生じないのは珍しいという。この「新しさ」はエヴァから10年経ったのだと思わせてくれる。あそこで開いた問題系に対して、それでもあえてする肯定へと前に進んだ。

 「特別な自分」というテーマの処理に対して、エヴァとハルヒでは対極的な処理がされている。エヴァが全能感ゆえに病んでいくのに比べて、ハルヒは全能感を率直に肯定する物語や世界構造を持っている。
 現実にはそういう全能感をキープするのは並大抵のものではないし、小説世界の中でも、3年前の特異点と一人称での語り手であるという設定があってこそ成立している。世界の肯定。全能感。こういった要素を今の世の中で可能にした物語だったからこそ、涼宮ハルヒはこれだけ受け入れられたのだと思う(それが全ての受けた要因ではないが)。

 それでもなお、否定的に語ろうと思えば語れるが、そもそもエンターテイメントというのは現実を忘れさせてくれてなんぼだろう。例えば、テレビのドキュメンタリーで、「職場は辛い。アニメがあるから生きていられる」とか言っている人を見た事がある。彼女にアニメと戯れるのではなく、現実に戻れといった所でなんの価値があるのだろうか。仕事して食ってる段階で「大人」だし、趣味でアニメと戯れても、何も悪くない。そもそも、目指すべき「大人」なんてどこにもいないんだろうし、ほっといたらええがなという話である。

 さて、読者の欲望=ハルヒの欲望による世界とその肯定について書いてきたのだが、「涼宮ハルヒが世界を規定する。」という設定は、それだけではなく、世界とヒロインを同一視できる事を可能にする。
 次では、この点について、述べる。

 続く。

■目次


涼宮ハルヒの分析Ⅰ
涼宮ハルヒの分析Ⅱ 京アニがボケてファンが突っ込む。舞台はWeb2.0(仮)
涼宮ハルヒの分析Ⅲ エンターテイメント/メタフィクション
涼宮ハルヒの分析Ⅳ 意味付け装置としてのネット
涼宮ハルヒの分析Ⅴ-1 京アニ演出の巧さ、世界の裂け目がもたらすめまいについて
涼宮ハルヒの分析Ⅴ-2 メディア・ギミック・イリュージョン テレビ版ハルヒとDVD版ハルヒの違いが持つ意味
涼宮ハルヒの分析Ⅵ-1 欲望投影システムとしてのハルヒ エヴァ・ビューティフルドリマーからの世界の肯定
涼宮ハルヒの分析Ⅵ-2 涼宮ハルヒの「憂鬱」について

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タグ: 涼宮ハルヒ 目次::涼宮ハルヒの分析
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