戯言と作品レビューや分析のブログとその時の思いつき。

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 一つ前に、涼宮ハルヒの物語世界と私たちのいる現実世界はねじれた形ではあるが等価だ、とりわけて、ハルヒ達の学園生活と私たちの日常生活が地繋がりなのではないかと、書いた。勿論、メディアのイリュージョンを使って最大限にねじれた形ではある。(涼宮ハルヒの分析Ⅴ-1 京アニ演出の巧さ、世界の裂け目がもたらすめまいについて )。メディアのイリュージョンとは虚構の事だ。ただし、それが一つの作品の中にとどまっているのではなく、ダイナミックな形で展開されている。

 さて、涼宮ハルヒは物語世界の中では、世界を作った、もしくは世界形成に影響を与える存在であるとされている。
 それでは、今、私たちがいるこの現実世界の生成が涼宮ハルヒという一人の少女、しかもアニメのキャラクターによって支配されているのだ!と考えるのはどうだろうか。デニーズで友人に語ったときには沈黙が支配してしまったのだが、よく考えてみると、そこまで危ない考え方ではない。
 というのも単純な事で、涼宮ハルヒがオンエアされていた時の私たちの生活、ブログや2ちゃんでの盛り上がり、エンディングのダンスを踊るやつがいてそれを見て笑うやつがいてという世界とは、まさに涼宮ハルヒによって作られていたのである。

 勿論、これも分析Ⅴ-1で書いたようにメディア・ギミックによるイリュージョンである。作者という明確なコントロールユニットがいるか否かの違いであって、要するに、京アニに踊らされていたと捉えるか、ハルヒに付き合ってやっていたと考えるかどうかの違いである。私は、ハルヒと一緒に遊んでいたんだという視点の方を選択したい。そっちの方が面白いと思うからだ。

 繰り返しになってしまうが、テレビやネットという枠組みにとらわれず、メディア全体を使ってハルヒという一つの表現を追求していると、私は捉えた。メディアが生み出したコミュニケーションのダイナミズムも、涼宮ハルヒの舞台装置の一つとして機能したのではないか、といったような事をこの文書では書いているつもりだ。

 その舞台装置の一環として、作品を意味づけていく。言い換えれば、涼宮ハルヒという作品を自分にもっともジャストフィットする形にカスタマイズするという機能がネットにはあったように思う。ここに関しては、涼宮ハルヒの分析Ⅳ 意味付け装置としてのネットに書いた。

 さて。様々なメディアが双方向に入り乱れた舞台装置の上で涼宮ハルヒという作品は上演された。その中では、制作者がねらった通りの効果を生んだものもあれば、想定を超えた盛り上がりが起こった事もあっただろう。

 そういったダイナミズムそのものを私は消費していたように思う。そういった舞台効果を作り出したのは、ネットによる援護射撃が大きかったとは思うが、勿論、ネットだけではなく様々なメディアが協同して作り出したイリュージョンだった。昔の生放送番組が、全国で同時放送という事に趣を置いていたとに似ている。もっとも、どのような作品でも、メディアの熱気も含めて消費されるように思うが。

 別の特徴的な例を出すと、筒井康隆が朝のガスパールという小説を書いた事がある。これは、新聞紙連載を活かして、小説世界の中に、パソコン通信で作品専用会議室でのコミュニケーションをほぼリアルタイムで反映させていったというものだ。今でも作品自体は読めるが、この会議室でなされた会話の熱気も含めて、朝のガスパールという作品だと思う。とりわけて、その祭りに参加していた人にとってはそうだろう。

 同様にテレビ版ハルヒは、サーバ上で為されたコミュニケーション、熱気、そういったものを含めて、一つの作品だった。

 そういう風に考えていくと、テレビ版ハルヒとDVD版ハルヒが全く違った作品である事に行き当たる。テレビ版「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品が終わり、DVD版「涼宮ハルヒの憂鬱」という新しい作品がひっそりとリリースされる。勿論、この二つの作品は表面上はよくは似ているけれど、DVD版ハルヒからは、は熱気がごっそりと削げ落ちている。

 何故ならば、テレビ版ハルヒとは、単なる映像作品ではない。ネットを含めた様々なメディアによるイリュージョンからなされていた表現だ。DVD版の発売は、こういったイリュージョン、三ヶ月の記憶に打たれた終止符ではないだろうか。

 メディア・イリュージョンとしてのテレビ版「涼宮ハルヒ」が終わった象徴ともいえるのが、DVD版の収録話数の順番である。TV版では放送話数は時系列を無視して無秩序に放映されていたが、DVD版では時系列に沿った形で正しい順番に戻されるのだという。DVDでは作品内部の時系列に沿って作品を再配置する事によって、テレビ版が持っていたダイナミズムが、作品の外部に拡がっていたダイナミズムが静的なものに置き換えられる。

 いうなら、ユーザーとハルヒを繋いでいたハシゴが静かにおろされた。エヴァンゲリオンのようなハシゴを蹴倒すようなやり方ではないが、こうやって静かに祭りは終演に向かった。これも、考えすぎかもしれないが、見事な演出だった。

 というのが、とりあえずの結論。

 後は、メディアイリュージョンだとかそういった話は置いておいて、涼宮ハルヒの物語そのものが素敵だという事を書きたいと思う。

分析Ⅵへと続く。

■目次


涼宮ハルヒの分析Ⅰ
涼宮ハルヒの分析Ⅱ 京アニがボケてファンが突っ込む。舞台はWeb2.0(仮)
涼宮ハルヒの分析Ⅲ エンターテイメント/メタフィクション
涼宮ハルヒの分析Ⅳ 意味付け装置としてのネット
涼宮ハルヒの分析Ⅴ-1 京アニ演出の巧さ、世界の裂け目がもたらすめまいについて
涼宮ハルヒの分析Ⅴ-2 メディア・ギミック・イリュージョン テレビ版ハルヒとDVD版ハルヒの違いが持つ意味
涼宮ハルヒの分析Ⅵ-1 欲望投影システムとしてのハルヒ エヴァ・ビューティフルドリマーからの世界の肯定
涼宮ハルヒの分析Ⅵ-2 涼宮ハルヒの「憂鬱」について

■TB。
萌え理論さんにトラバはらせて頂きました。「ハルヒのアニメ版を支持する理由」アニメ版ハルヒから展開しているエントリという事で共通点があれば良いなと。

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■関連エントリ
カテゴリ:評論
タグ: 涼宮ハルヒ 目次::涼宮ハルヒの分析
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