酷評ばかりが目立つゲド戦記である。キャシャーン・デビルマンクラスのものを覚悟して見に行ったのだが、そんなにひどくは無かった。
一言で感想をいえば、3秒ほど考えた後に「素直な作り方で、よかった。」という事になるのだろうか。
宮崎駿といえば、トンカツ映画作家であると自称していた(と、どこかで読んだ)。安くて旨くて栄養がある。それがおれの映画だという事だ。一方、素直な作り方とは、例えば豚のロースを刺身で食べるかのような印象なのだろうか。よかったという言葉は、商売心の反映を見る向きもあるが親心だと思いたい。
映画館での二時間半が終わったときに残ったのは、前戯のみで本番の無いセックスのような映画という印象だった。映像の快楽、物語の快楽が常に寸止めだった。トンカツの例えでいえば、衣が豚からはみ出ている。肉が生焼けだ。キャベツの千切りが太い。そんな所だろう。
例えば、塔を登る主人公。ブロックが魔法の力で崩れ落ちてくる。その形のあるものがブロックという断片に分解されて、ばらばらに落ちてくる描写は気持ちがよい。しかし、すぐにブロックの崩壊は止まってしまう。まるで、塔全体が崩れ落ちるかのような描写が見たかった。
すぐ後のシーンでは、ジャンプをして飛び乗る主人公。崩れるのだが、すぐに前に残る。もっと足場は徹底的に崩れて欲しかった。宮崎駿のラピュタでのシーン、On Your Markでの物理法則を完全に無視したシーンを期待してしまう。
後は、女の子が自力で鎖を説くシーン。これも、宮崎
アニメインスパイアを感じさせるが、あまりにも唐突すぎて映像に説得力が無い。もののけ姫の首が飛ぶシーンを見て、ソンナノアリエナイデースとアメリカ人が笑ったというが、それに似た脱文法的な感覚がある。
物語もプロットを読み取る限りでは、カタルシスの萌芽がある。少年の中にある心の闇をどう受け止め処理していくのかなど、テーマ的にはもののけ姫と重なる部分が大きいが、よりシンプルな形で表現されている(女の子が超人間的存在である事と、男の子の設定はもののけ姫をうまく処理している)。
その他、疑似家族的な関係、女の子のツンデレ設定、ヘタレな主人公など、要素的な面白さはあった。
しかし、それが全体としてまとまっていないがゆえに、ばらばらで快感にまで至らない。こういった事については、物語のプロフェッショナル原作者のル・グウィンが自信のウェブページで語った事が適切だろう(英語→
■ 翻訳版→
■)。
全体としては、美しい映画です。しかし急いで作られたこの映画の
アニメーションでは、多くの細部がカットされています。そこには『トトロ』の細密な正確さもなければ、『神隠し』の力強い、すばらしく豊かなディテールもありません。作画は効果的ですが、斬新さはありません。(……)
映画の“メッセージ”も、やや強引に思えます。しばしば原作から引用してはいるものの、生と死、均衡などの言葉が、登場人物やその行動から導かれたものになっていないからです。意図はどれほどすばらしくても、物語や登場人物の内面を反映しておらず、“苦労して身につけた”ものではないため、説教くさいだけになってしまっています。(……)
現代のファンタジー(文学でも政治でも)では、いわゆる善と悪との戦いにおいて、人を殺すというのが普通の解決法です。わたしの本はそうした戦いを描いてはいませんし、単純化された問いに対して、単純な答えを用意してもいません。
このアンバランスさを一言でいえば、新人監督であるがゆえの経験不足ということになる。それでは、「経験」とは何かについて想像をふくらませてみる。
技術的にも、「おい、困ったら空映してないか?」的なパンや不必要なカットの積み重ねなど、演出技術上の不備が指摘できるだろう。しかし、それ以上に経験が問われるのは共同作業の作法ではないだろうか。
いうまでもなく、
アニメーションというのは共同作業であるが、この共同作業の現場で、新人監督が自分の意見を通していくというのはやはり難しかったのではないか。
ゲド戦記は全体を通して、色彩設計が渋い。宮崎駿監督といえば、派手好みである。「もののけ姫はこうして作られた」で、色彩設計の安田さんと議論している姿があった。落ち着いた色が好きな安田さんに対して、ぎらぎらする色を主張する宮崎駿監督といった構図であった。カラーチャートを片手にした長時間の議論の末に、安田さんは、「宮さんは派手好きだから」としょうがなさそうに笑うのだ。
こういったお歴々のクリエイター/職人達と顔をつきあわせて自分の意見を貫くこと。それは並大抵の事ではあるまい。素人がいきなり大工の棟梁になるのに似ている。だから、スタッフの手癖がもろに出ているんじゃないか。
作画についても同様なのだろう。同じくもののけ姫のドキュメンタリーでいえば、同じカットに何度も何度もリテイクを出す宮崎駿監督の姿がある。まさに、その姿は妥協を許さない。
しかし、初監督作品で、向こうの方が圧倒的に経験が高い状態で指示を出さねばならないわけである。作画のリテイクを出したい、作画の人からも怪訝な顔をされる。また、何が足りないかを伝えるのも至難の業だろう。その上、あまりリテイクを繰り返すと鈴木さんから金がかかるといって怒られたりもするのだろう。
制作期間が短かったという事を鈴木プロデューサーが言っていたそうだが、しんどい作画をしていないのだったら、それは当たり前の事だ。
勿論、それは新人監督なのだからそういった事は仕方がない。勿論、発表の段階でこういった事は想定された事だ。むしろ、完成まで持って行っただけでも凄い。というべきだろう。こういった事が問題なのならば、テレビ
アニメで絵コンテ千本切りをするなどすればいい。
けど、私として単純にカタルシス・感動があったのは、スタッフロールを眺めている時だった。注目すべきは、「原案」の部分である。
なるほど。と全てが氷解した。この作品は「ゲド戦記」ではない。もっともである。もののけ姫と似ている。なるほど。世襲であったわけ。なるほど。この「原案」の選択には宮崎吾郎の意志が込められている。と、間違っているかもしれないが深読みをしてみる。
何故、作品名をゲド戦記としてしまったのだろうか。王立宇宙軍がオネアミスの翼になったのと同じような論理が働いたのかもしれない。要するにそっちの方が売れるからという算盤である。もし、そうなのだとしたら許し難い事だ。そのたった一行こそが最も重要な意味をもつはずなのに。その原案こそをタイトルにすべきであったのに。
そこには血のつながり以上の宮崎駿の血統であるという証明・叫びに見えた。宮崎吾郎は決して父殺しをしたのではない。もしかして、宮崎吾郎が本当に映像化したかったのはこの作品だったのかもしれない。
宮崎駿が「ゲド戦記」を映画化したくて出来なかった。同じ因縁がここでは繰り返されている。「ゲド戦記」の空白がその後の傑作を生み出したように、宮崎吾郎は空白を抱え込んだ。それがどうなるかは分からない。もしかしたら、闇に呑み込まれてしまうかもしれない。
だからこそ、第二回監督作品に静かに期待する。映画「ゲド戦記」の原案となった作品とはもののけ姫の原案の一つでもある。同時に、ある作品から派生したものでもある。それに、映像化されていない彼の作品といえばアレしかないではないか。
もし、第一回監督作品という言葉が、宮崎駿引退興行と同等の広告戦略的な戯言だったとしたならば、そのときこそ私たちは暴動を起こすべきである。みこしをかつぐだけかついで放り出すとは何事かと石を投げつけるべきである。
私は、ゲド戦記をあえて肯定する。
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