戯言と作品レビューや分析のブログとその時の思いつき。

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このサイトで、涼宮ハルヒの分析という名前で「自分という人間がどのように涼宮ハルヒを面白がったのか」、後はメディア的状況論については思いつく限りしこしこ書いてみた。

とはいえ、一般的な「涼宮ハルヒがどうして面白かったのか」という問いには答えられていない気が最近していた。で、ハルヒを語る時の語り口として何かないかなあと考えている時に思いついたのが、「世界の超越性をキャラクター化したのが涼宮ハルヒ」という視点だ。涼宮ハルヒはツンデレ属性だけではなくて、神属性を持ったキャラクターなのだ。

先行ウェブページ(?)をレビューしたり、インタビューなどの資料をかき集めて読んでから、、と考えていたら、最近微妙に忙しく、そのプランだといつまで立っても書けないことに気が付いたので、とりあえず思いついた事を書いてみる。という事で、もろ被りな主張かもしれませんが。


『ハルヒ』には、メタフィクション的な構造がある。だけど、呪われたメタフィクションではない。オトナアニメVol1で山本弘が言っていたパラノイアSFという概念をひっぱってきても良いかも知れない。

『ハルヒ』がSFとしてディープだと感じるのは、宇宙人や未来人や超能力者が出てくるからじゃない。僕がパラノイアSFと呼ぶジャンルの作品ーー現実は見た目通りではない」という発送で書かれたSFだからだ。


山本弘は、パラノイアSFとして、R.A.ハインライン『彼ら』・手塚治虫『赤の他人』・ダニエル.F.ガロイ『今宵、空を落ち…』といった作品を挙げる。そして、『ハルヒ』が無数にあるこういった先行作品と比べて画期的な点として、二つを挙げている。

 まずは語り部たるキョンの立ち位置。世界の中心人物ではなく「「彼ら」「赤の他人」を、世界を支える裏方の側から描いた話」である点が画期的だとしている。

 次に、苦悩の無さが画期的だとしている。
多くのパラノイアSFの主人公が、「世界が虚構だというなら俺の存在はなんだったんだ」と、苦悩し、困惑し、恐れていたことを、あっけらかんと受け入れてしまっているのだ」


 苦悩の無さはハルヒを語る上で忘れてはいけないことだと私も思う。ハルヒというのは苦悩に頭を抱える話ではなく良質なジュブナイルであり単純に読んでいて楽しいエンターテイメントだ。「現実は見た目通りではない」こと、「世界が虚構」であることの苦悩を『ハルヒ』は描かない。「世界が虚構」である事が当たり前の世界、が読者と作者の間で共有されているといえるかもしれない。例えば、ネット上の「自分」や「世界」は、使っているネットサービス毎に違っている。それは当たり前であり、本質的な問題にならない。

 逆に、メタフィクションとは「フィクション」を「超える」という事だから、「フィクション」に束縛をされている。従って、「フィクション」の向こう側にある「現実」にも束縛されている。メタフィクションとは、こういった、「フィクション」と「現実」という枠組みが共有されていた時代の言葉なのかもしれない。

 だとすると、昔自分がメタフィクション性こそが、ハルヒの本質だ的なことを言っていたのは筋違いという事になる。確かに、『ハルヒ』は、メタフィクショナルな構造を持っている。しかし、フィクションに束縛されるのではなく、メタフィクショナルな構造が価値の序列の無い平面的な空間に展開されて、その中をハルヒ達がかけまわっている作品なのだ。

 だから、虚構と現実の区別を用いて批判する類の批評は、『ハルヒ』のセントラル・ドグマには響かないように思う。「アニメなんてみていないで現実の女の子に恋をしなさい」という類の言葉は、『ハルヒ』的世界像の前では、相対化されてしまう。物語は物語、現実は現実という区別がきっちりしてる世界像の元では、「アニメなんてみていないで現実の女の子に恋をしなさい」という言葉はクリティカルな意味を持ってくる。しかし、今や現実の女の子だって、SNSやケータイに接続されたメディア上の身体しか持っていないのだ(ちょっといいすぎ)。

メタフィクショナルな構造が価値の序列の無い平面的な空間という世界の中で、ハルヒの設定(世界の創造主であるかもしれない、それを巡って様々な機関が対立をするetc)をどういう風に位置付けると気持ちが良いのだろうか。

それが、冒頭に書いた、世界の超越性をキャラクター化したのが涼宮ハルヒである、という切り口だ。

世界の超越性という哲学的・神様的な概念も、いちキャラクターとして表現できる時代がやってきた、そしてそれが馬鹿受けしてしまう読み手なり視聴者をもったのが現代であり、涼宮ハルヒ現象なるものの本質はそこにあった。

年長者が口をそろえていうのは、「ハルヒは面白いと思ったけど、こんなものがポピュラリティを得るとは思わなかった」という視点だ。しかし、時代と読者はいつのまにか変わっていて、それに京アニのビジュアル演出が援護射撃をした。

世界の超越性のキャラ化というと、ほとんど神話の世界である。「3年前」に小さな世界が生まれて、その世界には「涼宮ハルヒ」がいた。そして、萌えっ子と無口キャラ、もしくは未来人と宇宙人が欲しいという理由から、みくると長門をこの世界に生み落とした。北高とは「創世記」の舞台だったのかもしれない。

適当に、萌神学などと言ってみる。すると萌否定神学というのも世の中にはあることになる。こういったネーミングには、ちょっと馬鹿っぽいニュアンスが大事かと思う。谷川流的な紗に構えた感覚は大事だと思うので。

いわゆる神話の同型性と差異、ここら辺に関しては私には神話的教養が無いので、なんともいえない。いずれ、図書館で資料を漁って、、とか言っていると、どう考えても時間が無いので、とりあえず思いつきを書いておく。

一ついえるだろう事は、神話の用法が違うという事だ。そこには絶対的な超越性はない。それは世界の世界像を結ぶ為の神話にもならないだろう。その解釈をめぐって戦争が行われる事も無いだろう。あくまでもキャラクター化された超越性である。

で、世界の超越性のキャラ化がハルヒなのだとしたら、欲望系の陽性反応がみくるであり、欲望系の陰性反応が長門である。

世界があって、欲望を投影できるキャラクターがいて、それがフラットな世界を駆け巡る。これが、面白くないわけがない。また、この世界観設定はアニメ的遺産を最大限に活用できる舞台装置である事もわかる。

また、読者と書き手の間でフラットな世界像が共有されているとはいえ、現実社会はそれよりも重たい。色々なしがらみや偏見も多い。アニメが好きな人差別というのも未だにある。「アニメなんてみていないで現実の女の子に恋をしなさい」とう言葉に真実性を感じる時もあるだろう。
だから、フラットな世界像を提示して「これでいいのだ!」とその行動で示してくれるハルヒ達に、私たちは喝采を叫んだのではないだろうか。

また、テレビ版『ハルヒ』の巧みさとは、ビジュアル化だけにとどまらず、ハルヒの超越性の及ぶ範囲を作品世界からちょっと広げて、現実世界を侵食させていったことにある。ライブアライブは賛美歌である。ハルヒダンスは神の踊りだ(冗談)。京アニスタッフは、ハルヒに作品を作らされていたのであるし、httpの上を駆け巡ったメッセージも同様だ(詳しくは涼宮ハルヒの分析Ⅴ-1 京アニ演出の巧さ、世界の裂け目がもたらすめまいについてあたり)。

ということで、とりあえず、終わり。色々詰めが甘いと自分でも思うのだけど(とくに最後)、とりあえずアップしてから考える事にします。

過去に書いた涼宮ハルヒ関連のエントリは、下のタグ:涼宮ハルヒという所から辿れますので、よろしければどうぞ。

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カテゴリ:評論
タグ: 涼宮ハルヒ 目次::涼宮ハルヒの分析
次のエントリ;霜降りレッド!ローカルヒーロー大繁殖の件。
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